いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

「努力した人」は,「努力の量」で評価されているわけではない

なんか,自分はある程度忙しいほうが色々とものを考えるようになるようです。

帰り道の途中でこんな記事を読んで,考えがむくむくと大きくなってきたのです。

 

www.huffingtonpost.jp

 

ものすごく乱暴に要約すると「努力してるからって偉いわけじゃない」って話です。

ただ本当に,あまりにも要約が乱暴すぎるので,もうちょっと丁寧に,自分なりに考えてみました。

 

「努力」は「才能」が与えられなかった人に用意されている救済措置

まず前提として,「すべてのことにおいて他人より勝る人」というのは存在しません。

この記事を見ている人は,おそらく誰もボルトより速く100mを走れないでしょうし。

誰にでも向いていることと向いていないことがあります。

ある事柄において,それがその人に「特に向いていること」である場合,人はその状態を「才能がある」と表します。

「才能がある」人は,とくに何もしなくても基準の120%の結果を出せたりします。逆に「才能がない」とされる人は,同じことをしても70%までしかいかなかったりします。ゼロとかマイナスにしかならないこともあります。

でも,もし才能がないとみなされるような状態だったとしても,試行錯誤を重ねたり,反復演習を行うことによって,無理やり100%くらいの結果を出せるようになることがあります。そこまでの過程にある行為のことを,人は「努力」と呼びます。

というように「努力」というのは,いわばある分野において才能を与えられなかった人に用意されている救済措置のようなものなのです。

そして,もちろんこれには限界があります。どんだけ頑張っても100%に満たないことなんてザラです。でも,「がんばれば何だってなんとかなる」とか「結果が出せない人は努力を怠っている」と言う人もザラにいます。じゃあお前は努力で空を飛べるのか。

 

※こういう「じゃあお前は空飛べるんか」というような例を出すと,「人間は鳥じゃないから飛べないのは当たり前だろう」とか「でも人間は飛行機を開発したじゃないか」とか言い出す人が必ずいるんですが,前者はたぶん「頑張ればなんでもできる」という理屈を崩したくない人で,後者はそんな世界を変えるような革新的な発明をしたという偉人の実績をさも人類全体の功績みたいにすり替えて自分の話に落とす気のない人なので,どっちも嫌いです。

 

日本人は特に「努力」しか選択肢がなかった人が多かった

江戸時代の農民とか特にそうだと思うのですが,日本人は職業選択の自由とか,移住の自由とかを制限されていた人が大量にいたせいで,「向いている」ことができる人が少なかったのでは,と思います。だからどんなに頑張っても基準に満たないということがわかっていても,「努力」をして少しでもマイナスを減らすしかなかった。そしてそれが結局報われなくても,「これだけ頑張ったんだから」とお互いを慰めたのでは,と思います。

制度上は大分自由になってきた現在でも,置かれた場所で咲きなさいなんて本がベストセラーになるくらいなんだから(読んでないけど),みんながみんな自分の居心地のいい場所に行こうとするわけではない,というように思います。そして,「努力の量」を評価する文化も,まだ残っている。

 

もちろん,努力なんてするだけムダだ,と言いたいわけではありません。多くの場合にとって,努力というものは有効です。

ただ,「努力」というものが意味を成すのは,努力をした結果「意図通りの効果が出た」場合か,「意図通りの効果は出なかったものの,それ以上の効果があることを学ぶことができた」という場合に限られます。それ以外の努力は,残念ながらただ作業量が増えただけ,と言わざるを得ません。

そしてもちろん,そういう何の実にもならない努力をしてしまうことだって,ときにはあります。それを否定しているわけでもありません。問題なのは,それがその人にとって向いていないことだし,どう考えたって何の実にもならない努力を続けているのに,周囲がそれを「努力が足りない」と指摘してその人を責めたりする場合です。努力の量が多いほど偉いなんてことはまったくないのに,それを評価するような土壌が残ってしまっているから。

「他の人はできたのに」とか言う人もいますが,そういう人は個人によって資質が違う,という前提をすっ飛ばして話す人なので嫌いです。でも,きっと同じようなこと,どこかで思ってしまった事があるように思います。自分はあります。

 

努力をしてもどうしようもない人を責めてさらに「努力」を強いることを続けると,最悪その人は自殺するでしょう。でも,そういった事態になるまで,「努力を強いる人」はそのことの重大さに気づかない。

 

最悪の事態に至る前に「あ,ここ,自分がいる場所じゃないのかもしれない」と気づいてその場から離れられたらいいのですが,中々それは難しい…。

最初からお互い友好的に助け合ったり,ポジションを動かしていったりして,少しでも負担が軽くなるようになったらいいのになあ,と残業明けの自分は考えるのでした。