いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

ブラッシュアップライフみたいな日々

ぜーんぜんブログに記事を書いてなかった。

日記自体はノートに書いたり5年日記に書いたりNotionに書いたりしているものの、外に向けて書くものとしての文章はもっぱらXくらいでしか書いていない。

あとはインスタのストーリーか。あれ1日で消えるから色々便利なんだよな。自分だけが見られる日記みたいになってる。

逆にインスタ本体の投稿の方にあんまり写真をアップしないようになったかも。まとめ的な位置づけになりつつある。

 

でも、基本どれもソーシャル・ネットワーキングサービスなので、人の目を気にしてあんまりダラダラと書けないのはちょっと息苦しいな、となってしまう。昔と違って、自分の見られ方と密接につながりすぎるようになってしまった。WEBサービスって成熟しちゃうと全部そう。永遠と自分のやったことが積み上がり続けるから、それである程度自分というものが保証される感はありつつ、それに縛られるようになってしまう。

となると、ぜーんぜん書いてないブログとかのほうが正直に、適当にゆるく書けたりする。他人がいることを前提とするものの、コミュニケーションを前提としない自分語りの場。会話がないからちょっと寂しさはありつつ、いいですね。

 

※ちなみにこことは別にnoteもやっていた時期があって、はてブロの中身をそのままnoteに移すことが出来るらしいんだけど(投稿日とかもそのままにできるらしい)、noteも最近全然見てなくてはてブと同じ気持ちで書けそうかちょっとわかんないので統合に待ったをかけているところ。

noteって、どっちかというと主張がちゃんとあって、それについて話したい、っていう感じのテンションな気がする。それでフォロワーを獲得していくような。

それも結構SNSなんだよな。なのでもうしばらくははてブに居座る気がします。

 

 

閑話休題

 

 

また転職をして(ここに経緯を書いてないからまたも何もないんですが)、◯社目にして1社目の会社に戻ってくる、という選択をしました。今は新卒の時に配属された部の、違う課・違う職種で働いています。

何年か職場を離れても社屋はお引越しすることなく同じ場所にあり、会社を辞める時に「ここでランチを食べることももうないんだろうな」と思っていた店でランチを食べ、辞める時にもう一生会わないだろうなと思っていた同僚と久しぶり~!って話をしながらまた一緒に働きはじめるの、結構脳が混乱します。

 

ブラッシュアップライフという、バカリズム脚本の人生ループもののドラマがあるんですが、まさに安藤サクラの気分。あー、これ懐かしいな、これも懐かしいな、とか思いながらあっという間に半月が経過しました。

www.ntv.co.jp

 

別に何が何でも戻ってきたかった、というわけではなく、どちらかと言うと安定をとった結果修行場所としては他より良い、という現実的な見極めの結果戻ってきたので、辞めた原因になっているだめな部分もほぼほぼ辞めたときのまんま。

ちょっと良くなっている部分もあるけれど、昔いた時代から信頼してきた頼りになる人が上長でなかったらキツかったろうな、という感じがする職場です。

転職を数回して、全てが希望に適う完璧な職場というものは存在しない、ということを学んだので、あんまり職場に振り回されないようにしつつ、自分が深めたいことを淡々とやっていくスタンスでいこうと思います。

 

同じ課には新卒同期がいるんですが、(もともとその傾向はあったものの)人のいじり方がかなりハラスメントがち+言葉と態度がキツいので健全なコミュニケーションが難しいときがある、という感じに育っていて、ちょっとやばいねえ……となっていたのでどう対処するかが目下やるべきことのひとつかも。

自分のコミュニケーションすらおぼつかないのに!なぜこんなことを!という感じだけど、ぼちぼち生きていきましょう。

 

 

 

わたしたちは、同じ地平に立っていて、幾重にもずれた世界で暮らしている

あなたのやることなすこと100%何も理解できません、という人と面と向かって話をする機会は、そんな変わったことをせずに暮らしている限りはそうそうない。職場にはだいたい同じような感じの人が集まるし、友人もだいたい同じような境遇や共通の背景をもった人であるし、花より男子のような劇的な恋愛でもない限りは、付き合う人もタイプが全く違うなんてことはそこまでないと思う。真逆のタイプが好き、といっても、何の話をしても全く噛み合わない人と恋に落ち、かつそれが成就する可能性はそんなに高くないはずだ。

 

ただ、ある一部において全く話が通じない、ということはそこまで珍しいことではない。経験したことがないことについて、知らないことについて、すらすらと話をすることはできない。

皆が同じ人生を送ってきているわけはないから、基本的にだれかと話をする上で前提とできる範囲はみんな違う。でも、生きてると「え、そのレベルの話も通じないの?」となる場面には多かれ少なかれ遭遇する。

 

別にそりゃそうじゃん、という話ではある。だって違う人生を歩んできたんだから。同じ日本でも都道府県が違えば環境は全然違うし、仮に同じ都道府県だったとしても地域ごとにも環境は違うし、通ってきた学校が違えばコミュニティが違う場合もある。そんな何もかもの境遇が違う人と話す場合、噛み合わないことのほうが多いのは当たり前だ。

意識したいのはその対処で、自分が知らない世界の話を「自分はその世界のこと知らんから笑」みたいな感じで知ろうとしないまま適当に流すことはしたくないなあ、と思う。

 

自分たちは同じ世界に暮らしているように見えて、幾重にもずれた世界のなかで暮らしている。自分たちが一緒に立っているのは世界ではなくて、ただの地平だ。世界は主観の数だけ存在するし、幾重にも分離している。

 

めっちゃ簡単に言うと人が悩んでるときに適当に無下にしないようにしたいね、という話ね。きをつけよ。

夜の散歩

散歩が好きだ。

正確に言うと「自分は散歩が好きなんだ」ということを最近自覚し始めた、と表現するほうが近い。

特に夜に散歩するのが好きだ。もともと人混みが嫌いだから、ほとんど誰も人通りのない夜の路地はとても歩きやすい。人を避けることや追い抜くことに脳をほとんど使わず、歩くことと、周囲の建物を見ることに集中することができる。

 

コロナ禍の最中に中央線沿いに越してから、遠出をする代わりに近所をうろうろと歩き回るようになった。昼間は人出があるからマスクをして息苦しく歩かなければ行けないけれど、夜中に歩くのであれば周りを気にする必要もない。変な形の出窓がある家、どこかから漂ってくる食事の匂い、暖かな明かりに照らされて動く人の影。自分の周りにはこんなにたくさんの人が住んでいて、それぞれ生活があるんだ、と思うとなぜか気持ちが落ち着いた。

 

最近は昼でもマスクをしなくて良くなったけれど、夜道を歩く頻度は増えた。最近仕事で変化が激しすぎて精神的に参っており、他人との予定も入れられないほど消耗して昼間は家で泥のように眠ったり死んだ目でYouTubeを見たりしているうちに夜になって一日を無為に過ごした自分に絶望してしまったときなんかに散歩をしたりする。

AirPodsポッドキャストやラジオを聞きながら(今日聴いていたのは星野源オールナイトニッポンだった)、線路沿いをひと駅かふた駅分歩く。だいたい東中野駅から高円寺駅まで歩いたり、逆に高円寺駅から帰るときに中野駅まで歩いて電車でひと駅分乗って帰ることもある。普段自分が遊びに行ったときに歩き回る繁華街の外にも当然街は広がっていて、その境目を通り抜けるのが好きだった。高円寺側からセントラルパークを抜けて中野駅の北側を通過して、中野サンロードを抜けた先にあるライフを越えた先に急に一軒家と2階建てのアパートばかりが立ち並ぶ住宅街が広がるところとか、特に。

 

思い返してみると、コロナ以前も自分は夜にひたすら歩き回ることが多かった気がする。ひとりで旅行した時は一人で入れそうな居酒屋を探してひたすら繁華街を歩き回ることが多いし、自然の中にある宿に泊まったときもほとんど電灯のないような真っ暗な道をひたすらうろうろしたりする。海沿いに泊まったときはひたすら海岸沿いを歩いたりする。沖縄に旅行に行ったときも夜中にドライブに連れて行ってもらって海岸沿いの公園に行き、砂浜を歩いたりベンチに座ったりしてひたすら波音を聴いていたりした。

東京に来たばっかりのころは二丁目に来てもどこに入ればいいかなんてわからなくて、終電近くになるまで2~3時間くらい周辺の道をうろうろしていたこともあった。札幌に住んでいた頃は飲み明けにすすきのから札幌駅を越えた先にある自宅まで歩いて帰るのはザラだったし、もっと遠いところにあるスーパー銭湯から3~4kmの道のりを自宅まで歩いて帰ることもあった。

夜の道を歩いていると、周りの景色が歩くスピードでゆったりと変わっていく。ちょっと気になるものがあれば、立ち止まったり速度を落としてゆっくりと観察することもできる。気になった方に曲がってみて、寄り道することもできる。

他人や状況に左右されずに、自分で進むスピードをコントロールできているのが自分にとって安心する要因なのだろうな、と思う。自分ひとりではどうにもならないようなことに振り回されて現在位置がわからなくなるような状況だとなおさら、自分は自分のものであるということを確認したくなって自分は散歩に出るのかもしれないな、と思う。

 

早くもうちょっと仕事、余裕が出るようにしたいな。

一時期本当に朝から晩まで会議と判断ばっかりで息継ぎするスキマもなかった頃から比べると多少マシだけど、ちょっと今の状態が続くと心がぐえってなっちゃうかも、って書いてて思った。

せっかくコロナも落ち着いてきたんだから、気軽に休日前後に一日休んで海外旅行とか行けるくらいマシになるようにしたいな~……。

2021年度下半期に見たものとか読んだものとか

仕事だいぶヒマだな〜とか思っていたら無事また忙しい時期に突入し、あと私生活でも個人的にあれしたいこれしたいとかいろいろ動き始めたらアワアワし始めるような感じになりました。寒い冬も終わりそうだし、やっと精力的に長時間動けるような気持ちになりそう。やっぱり寒いと活動レベルが下がるのだ。

 

積読本を減らすぞ、と意気込んで年間目標(一応社会人になってから毎年立てている)に3年くらい入れていたのに一向に減らない現状マジでやばいなと思い、ちょこちょこと積読を崩す活動を始めています。マイリストに登録したままにしていたアニメとかドラマも見てる。
いつもなんらか読んだり見たりしたほうが頭があったまるので、いろいろなことやらなきゃと思ったときにちゃんと動けるようになる。いい傾向だ。
というわけで最近見たり読んだりしたものをちょこちょこ紹介します。

 

■クイーンズ・ギャンビット(ドラマ/NETFLIX)

www.netflix.com

 

最近というかさっき見終わったやつ。いいドラマだった。

ドラマって長くて苦手なんですよ。コロナ流行りたてで初の緊急事態宣言だったときはマジで長い梨泰院クラスも夢中で見られたけど、今みたいに仕事が深夜に食い込みがちでジムもガンガン行きたい時期にそれをやるのはしんどいのです。(そのくせYouTubeとかはつけっぱなしにするのにね。なんであれは時間を浪費させるんだろう)

でもこれは7話構成、1時間かからない話もあるのでドラマシリーズにしては比較的とっつきやすいです。

チェスの話ですが、このドラマは並外れた才能と、その代償として近づいてくる悪魔についての話。人から外れたギフトを持つ主人公がどのように悪魔がこまねく手を払えるようになるのか、その過程が綺麗にまとめられていて美しい話だった。構図やライティングもすごくレベルが高い。

 

■メダリスト(漫画)

afternoon.kodansha.co.jp

 

フィギュアスケートの漫画です。びっくりするほどアツい。
夢を諦めた青年コーチと自分を信じられない少女が、年齢の壁を超えてスケーターとして成長していく過程を描く物語。

意志や感情や魂が筆致に如実に現れるタイプの作画がめちゃ好きなんですよ。これもその類です。本当に読んでいて心が震えて、自分のやりたいと思うことを全力でがんばろうと思えるようになるのでぜひ読んでほしい。

 

左ききのエレン(19)(漫画)

www.shonenjump.com

 

最新刊が出たので読みました。もう終盤だなー。

こうやって並べていると、才能があってもなくてもそれとどう向き合うか、みたいなテーマのものばっかり読んでるような気もする。自分は凡人側なので、その凡庸さとどのように向き合っていくか、ということを模索しようとしているのかも。でもそれって「ある程度上限はあると思うがやるだけやってみろ」に集約されるような気もする。

ただ、「気がする」だけだと動けないから、そういうのをテーマにした作品で燃料補給をしているような感じ。それでうごけるなら良し、ではあるが。

 

■往生際の意味を知れ!(漫画)

bigcomicbros.net

 

メダリストとこれは勧めてもらって読み始めた漫画だけど、こっちもめちゃ面白い。短期集中型サスペンスで、最初は意味がわからないけれどだんだんと明かされていく系。

あげくの果てのカノンは名前だけは知っていて気になっていたけれど読んでいなかった。読み始めてから同じ作者の人だと知ったけれど、そっちも気になる。メルカリで買おうかな……

 

ケンブリッジ・サーカス(柴田元幸)

www.shinchosha.co.jp

 

エッセイ?と思ってずっと前に買ったけれど、読みだしたら微妙によくわからないショートショートみたいなやつが入っていて「???」となってしばらく放置していた。
ポール・オースターの訳者としての認識が自分の中で強かったけれど、自分で短編小説も書くのか、と読んでほえ〜となった。

日常と地続きになっている回顧と非日常、そして自己との対話。ifを考えるというのとは少し違う、より自然に自分の中に存在しているもの。だから、意図がわかると読むのが早かったのかもしれない。

 

この調子でたくさん読むぞー。

ちなみに今は岡田育の「我は、おばさん」と「電脳コイル」に取り組み中。

なんでもう今年が終わっちゃうのかな

前の投稿から気がついたら半年経っていました。30過ぎてから時空歪んでない?

Twitterで知らない裏アカから「ブログ書かないんですか?」とDMが来て本当に久しぶりにブログのエディタを開きました。そして今あらためてそのアカウント見たら凍結されてた。凍結されるようなコンテンツをTwitterに投稿する人もこんな辺境のブログ読んでるんですね…どこで見られてるかわからないな……

 

仕事がクソ忙しかった去年と違い、今年はびっくりするくらい暇です。いや仕事がないわけではないんだけど、年末年始含めて毎晩死にそうな思いでパソコンに向かっていた昨年末よりは全然マシです。人間的な暮らしとはこういうことか。

今回の転職で相当下がっていた年収も無事取り返し、生活水準も以前の水準にだいぶ戻ってきました。13年ぶりくらいに冷蔵庫もでっかいやつに変えました。全自動洗濯乾燥機ほど顕著ではないけれど、やっぱ冷蔵庫が大きいとちょっと生活変わるね。

jp.sharp

 

買ったのはこれです。今までは大学寮から出たときに買った130Lくらいのよくある小さな2ドア冷蔵庫でした。

ただそれだとコストコ行ったときにすぐ買いためたもので冷蔵庫がいっぱいになっちゃったり、去年初めてふるさと納税を頼んだときに届いた肉で冷凍庫が肉で満杯になっちゃったりして、結構狭いな〜という意識が本格化してきまして。

おまけにコロナ禍で自炊する回数が格段に増えたので、ある程度は食材とか作ったものを入れておけるスペースも欲しかったり、広い部屋に引っ越したのでスペースもあったり…といろいろな要因が重なり、購入に至りました。

 

今年のふるさと納税は結構冷凍ものを多めに頼んだ(豚肉4kg&カニ1.5kg)うえ、業務スーパーブロッコリー2.5kg買ったりアイスや冷食ある程度買って入れたりしたのですが、全然余裕で入る。嬉しすぎる。冷凍庫が大きめのやつ買ってよかった……

 

冷蔵庫部分も広くて使いやすい(特に野菜室が広くてキャベツとか白菜が余裕で入る)のだけれど、ドアポケット部分がマジで広いので瓶ものの調味料が延々と入ります。なので延々と調味料を買ってしまう。そして自炊がよりはかどる。素晴らしい。

item.rakuten.co.jp

item.rakuten.co.jp

 

最近(そんなに最近でもないが)の家事ヤロウでやってた上記二種の醤を買って入れたり、気になっていたフォロのドレッシングを買ったりしてご満悦です。

最近夜は鍋ばっかり作ってるので、味付けを鶏ガラスープと塩主体にして食べるときにこれらの醤で味変すると大変よろしいです。チャリ圏内に業務スーパーがあるとほんとはかどって助かる。

 

そんなこんなで冷蔵庫を買って得したねえ、という話なのですが、東京都民でかつ結構古い型からの買い替えだと、申請すれば結構な額の商品券+LED製品券がもらえます。

冷蔵庫の場合は新しく買う冷蔵庫の容量によってもらえる商品券の額が決まっていて、自分はJCB商品券12,000円+LED商品券1,000円がもらえました。

期間が延長されて2022年の3月末(予算が切れ次第終了)までになったので、冷蔵庫の調子が悪い方はぜひこの機会にいかがでしょうか。

www.zero-emi-points.jp

 

こういう感じで適当に昔は書いてたのに、全然書かなくなっちゃうもんだなあ。

また気になることがあったときにちょこちょこ書いていきます。読んだ本の話も観た映画の話もしたい……

ことばで考えないと僕はクソになってしまう

ギリギリ1年経たないうちに記事を書けましたね。あぶない。過ぎても特になにがあるわけでもないけれど。

 

前の会社が(事業やいる人的には別に問題はなかったけれど)自分の業務スタンスと致命的に合わずにサッと転職してもうすぐ1年。今はとても楽しくやっています。

去年の年末くらいから繁忙期に入ってGW前までずっと忙しくて、とりあえず仕事を消化していくことを優先していたらソシャゲとYouTubeTikTokをぼーっといじることしかできないアホが出来上がりました。

これはやばい、とやりたいことは時折リストアップしているのだけれど、それを行動に移すハードルが高すぎて結局脳死していてもなんか時間を潰せるものに手を伸ばしてしまう。よろしくない。

特にTikTokとか脳みそを1mmも使わなくても数時間単位で溶けてしまうので、どんどん感情で行動するようになる。結果的に普段の生活でも頭を使わない、というか使えずに「歩きタバコする奴は全員首が吹っ飛べばいい」くらいのことしか考えられない感じになってしまいました。

 

自分の中では「道を歩いていて自分ではコントロールできないことばかり気にかかる」というのは相当自分の頭がイッちゃってるサインです。他に考えることがないということなので。

自分はなんでもいいので言葉で考えて書いて残していかないと、すぐからっぽになってしまうのです。

なので、ちょこちょこと頭のリハビリも兼ねてブログも書いていくようにします。

これ以上アホになりたくない。ぐすん。

正しいことを言うことに、どれだけ意味があるのか

諸々あって会社を休み始めて、そろそろ2ヶ月が経つ。

結局転職した会社を辞めることにした。コロナのご時世のなか、ありがたいことに次の仕事は見つかったので路頭に迷うおそれはなくなったけれど、ちょっと長めの人生のお休み期間をもらう結果となった。あとひと月休みはあるけれど、きっとまたたく間に過ぎていってしまうだろう。この2ヶ月も一瞬だったから。

色々学ぶことはあったので、転職した事自体に後悔はない。こういうときもある。

 

休みの間に、今まで見るに見られないままでいた映画やアニメ、読みためていた本や雑誌を黙々と消化し続けていた。普段は手を出すのに躊躇する連ドラまで見たりしている。「梨泰院クラス」、良かったです。その話はまた別でするとして。

 

ずっと見られずに気になっていたアニメシリーズのひとつに「Fate」シリーズがあって、今はそれを放映順にもくもくと見ていっている。もともとFGOからハマり始めたのだけれど、概念礼装に描かれているキャラのことが全然わからないうえにそれがおびただしい数あるので「なに…こんなたくさんキャラいるの……?」と思いながらもアニメは見られずにいた。

2クール×複数シリーズのアニメは平時の自分にはハードルがやや高かったのだが、いまは堂々と朝からアニメが見られる天国のような状況なので5〜6話ずつ分割しながら見続けている。

 

Fate/stay night」「Fate/stay night UNLIMITED BLADE WORKS(映画版)」「Fate/zero」まで視聴し終わった。スタジオディーン版のは作画がいろいろな意味でものすごかったのだが、ufotableがアニメーション制作を担当した「Fate/zero」はやっぱりすごかった。と同時にストーリーがわかりやすく重かった。

「過ぎたる夢」という共通点で繋がった衛宮切嗣とセイバー。彼/彼女の言うことは紛うことなき正論なのだけれど、このアニメはそれを語ることの無意味さ、そしてそれにすがらざるを得なかった人の懊悩を描くことがメインテーマの一つだったのだろう。

 

 

最終話直前の24話、切嗣と、切嗣を模した聖杯との間で以下のような問答がなされる。

片方の船に300人、もう一方の船に200人。

総勢500人の乗員乗客と、後は衛宮切嗣

仮に、この501人を人類最後の生き残りと設定しよう。

二隻の船底に同時に致命的な穴が開いた。

船を修復するスキルを持つのは衛宮切嗣だけだ。

さて、キミはどちらの船を直すだろうか。

 

常に「どれだけ多くの人を救えるか」で判断をしてきた切嗣は、300人の乗る船を救うことを決断する。だが、300人の乗る船に移動しようとすると、200人の船の乗客は自分たちの船を直すように、と切嗣を捉えて脅す。

それでも、200人を鏖殺してでも300人の乗った船を救う、というのが切嗣の判断となる。

だが、それと同じことがもう一度起こったら?

 

生き残った300人は傷ついた船を棄て、

新たに二隻の船に分乗して航海を続ける。

今度は片方の船に200人、もう一方の船に100人だ。

ところが、この二隻の船底にまたしても同時に穴が開いた。

キミは小さい方の船に乗る100人に拉致され、

先にこちらの船を直せと強要される。

さあ、どうする?

 

切嗣の判断基準に照らすと、今度は100人を鏖殺して200人の乗る船を救うことになる。だが、それだと救った人数が200人であるのに対し、切嗣が殺した人数が300人となり、結果的に切嗣の希望と逆の事象が発生してしまうことになる。これではあべこべだ。

 

セイバーが11話の問答で征服王イスカンダルから「王という偶像に縛られていただけの小娘に過ぎん」と一刀両断されていたのと同様に、切嗣もまた実現不可能な正義に縛られた脆い存在だった。それでも足掻く両者にドラマを感じてしまうのは、きっと心のどこかでそう願ったことがあるからだろうし、心のどこかにそれと同じ感情が根付いているからなのだと思う。

 

正義や正論は、言葉通り、もちろん正しい言葉だ。ただ、それは口にするたびに、「正しくないものはすべからく排除されるべきだ/救われてはならない」という呪いを吐き出す呪術装置でもある。SNSでインスタントな正論が量産されても世の中が全くマシにならないのは、つまりはそういうことだ。

心から正しくあろうとする人ですら正義や正論に救われないのなら、それ以外の人がそれを振り回しても傷が増えるだけである。この場合傷の度合いが深くなるのはその人自身でなく周囲の人になるから余程タチが悪い。本人にその自覚がないのも、同様にタチが悪い。

 

言葉以前の感覚でその虚しさに触れたことのない人は、ずっと表面的な正論や正義を撒き散らして表面的な快感を得て生きていくんだろう。

不可能なことだけれど、感情それ自体をそのまま共有できるようになったら、そういうこともなくなるんだろうか。共有すんのも嫌だけど。