いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

決断とは

土曜日,会社同期の結婚式の二次会に行ってきた。さすがに27歳にもなると結婚式の回数もちょこちょこと増えてきて,みんなそういう時期に差し掛かってきたのかとしみじみしている。

そんな中で,大学時代から知っていて,同じ会社に入った同期が結婚することになりそう,と帰り道に寄ったバーで話してくれた。

仕事が好きで,ほぼ女の人の影もなく(だからといってホモというわけではない),きっとしばらく結婚しないんだろうなあ,と思っていたので,ちょっとびっくりしてしまった。

付き合って一年もしないうちにプロポーズしたと聞いて,人生を左右する決断ってそんな短期間でできてしまうもんだなあ,となんだか感心したというか,拍子抜けしたというか,よくわからない気持ちになった。

 

実際は自分だって人生に大きく影響する選択なんて結構しているはずで,そんなに特別扱いするようなもんでもないと思うのだけれど,周りのノンケには「結婚」とか「家族」とかわかりやすいターニングポイントがあるせいか,なんだかすげえなあ,と圧倒されてしまうときがあるのだ。

それと同時に,そういうわかりやすいゴールがあることが,ちょっとうらやましくもあったりする。

最近,そういう人生の選択について考えてしまうことが多くなってきて,ああ,自分もけっこうおっさんに近づいてきているんだろうか,なんて思ったりもする。

 

自分がどうしたらいいのか,どういう道を進んだらいいのか,なんでもできる人になればいいのか偏った人になればいいのか,行ったり来たりしているうちに周りの人はどんどん決断をしていって,自分だけが置いてけぼりにされてしまうような気持ちになってしまったりもする。

それだけ,自分が内心焦っていて,悩み続けるくらい自分のことをまじめに考えるようになってきたのかも,と考えると,ちょっと進歩してきているような気もする。

いっぱい悩んで,考えて,あとは行動していくだけ。あんまり頭抱えすぎていてもしょうがないし。

さ,月曜だ。

もしも,の話

何か上手くいかなかったことを思い出すたび,「もしも〜だったら」ということを反射的に考えてしまう癖が,もう取れないくらい頭に染み付いてしまった。

想像力が豊かなほど,もしもの世界は色鮮やかになる。現実で実際に想像したことが実現されなくても,想像しただけで満足してしまうくらいに。

 

もしもの世界は自由だから,どんな都合の良いことでも,どんなに道理がねじまがっていても無限大に寛容だ。他人の身体も心も自分の意図通りに動かせるし,どんなに可能性が低いことでも確実に成功させることができる。

そしてその想像から得られる快感は,現実での歩みを鈍くしてしまう。自分の頭の中に引きこもっていれば,傷つかずに済むし,インスタントに仮初の達成感を得ることができるから。

でもそれでは前に進めないから,その「もしも」を整えてどこかに封じ込めて,自分と離れたところに置いておく必要があった。その作業が,自分にとっては写真を撮ったり,小説を書いたりすることだった。自分の心の中にあるものを外に出してしまうことで,自分はその「もしも」が存在しないもので,心の拠り所にしてはいけないもの,ということを理解しようとしていた。奇跡のような妄想を消化して,自分に対して現実に目を向けさせるようにしていたのだ。

 

最近また小説を書き始めて,写真もまた意識して撮るようになって,自分ってこんなに都合のいいことや,ごちゃごちゃした妄想を頭の中いっぱいに考えていたんだなあ,と改めて思うようになった。

努力をそんなにしなくても成功できると思っていたり,自分の意図を汲み取って周りが動いてくれると思っていたり,自分から何もしなくても何とか事がうまく運ぶと思っていたり。

そんなことは,ないんだよなあ。残念ながら。

 

「もしも」は適度に頭からお掃除して,自分は現実を生きよう。

 

外向きの言葉,内向きの言葉

こうやって文章を書こうとする時,自分は基本的に「誰かになんとなく(あるいは明確に)わかってほしいことがある」と思って書き始めるときと,「なんでこういうふうになるんだろう/思うんだろう/考えてしまうんだろう」と思って書き始めるときと二種類ある。

便宜的に「外向きの言葉」「内向きの言葉」の二種類がある。前者はブログの文章だったり,Twitterだったり,あるいは他の人と話す時の言葉になったりして,後者は自分向けの日記になる。どっちのほうが好き,というわけでもないのだけれど,きっと自分は外にむけて話したいことが多いんだろうな,と思う。

もっと人と仲良くしたい,好きなことを話したい,とは思うのだけれど,自分の中で「誰と」という部分の優先順位がおかしかったり,ノイズが沢山入ったりして,ものすごく素敵な時間を過ごした,という機会が減ってきている気がするのだ。

知り合う人が飛躍的に増えたからかもしれない。いろんな事やものや人に目移りしてしまっているからかもしれない。きっと,自分が好きなものに取り組む時間が少なくなっているのもあると思う。

学生の頃は生活の殆どが本と写真と小説で埋まっていて,とてもシンプルだった。社会人になって,プライベートでも色んな活動をするようになって,楽しいことはとても増えたけれど,それに流されっぱなしになっている感じがずっとしている。それがとても自分でストレスになっている。

自分の話す言葉から中身がなくなっていく前に,あたらしく知識を組み込んで,積み上げていく必要がある。じゃないと,いつまでも自分が楽しく思える事が増えないままだなあ,と思う。

 

今年はもうじゃんじゃん,吐き出し先としてブログを使っていこう,と思ったりして。きっと毎日何か考えてアウトプットしておかないと,頭が本格的にさびついてしまう。いや,もしかしたら既にほぼ錆びついて動いてないかもしれないけど。でも,少しずつ油をささねばならぬのです。

てか日に日に出勤できない職場の状況が悪くなってく。もういっそころしてくれー。来週完全に気が重い。

自分を責めること,改善すること(東京タラレバ娘ドラマを見て)

年明け風邪で三連休を半分くらい潰したと思ったら,月曜日にまさかのインフルエンザを発症してしまって現在自宅待機中です。一週間まるまる休みになってしまった。

というか完全にアウトなタイミング(何個か抱えてた仕事がやっと今週大詰めに入って,ここを乗り越えれば何とか落ち着くと思っていたタイミング)で穴をあけてしまったので,完全に職場があわあわしているのを電話とメール越しに聞きながら自分は仕事できずに最低限の連絡だけしなければならないという,完全に生殺し状況に入っていたりする。穴があったら入りたい。穴自分で掘るから入らせて欲しい。

 

昔から同一タイミングに3つか4つくらい悪いことが重なると,どうしたらいいかわからないくらいに落ち込む。その場でわたわたして何もできなくなってしまう。一回深呼吸して,とりあえず処理できそうなことから落ち着いて取り掛かっていくのがいいんだろうけど,身の回りに見えるものに全部「悪い出来事フラグ」が立っているようなフィルタが目にかかってしまって,全部悪く見えてしまう。

こうなってしまうと,もう何をしても怖い。道の譲り合いになって左右におろおろしていても「この人めっちゃいらついてるんだろうな」ってとてもビクビクするし,投げたメールの返信が返ってこないと「あー絶対うざがってるきっと」となってしゅんとするし,自分のしていることがどういう影響を及ぼしているかが気になって仕方なくなる。そして全部自分のせいにしたがる。

 

そのくせそこから何で悪いことが重なったか分析したり,学んで行動を改善するところまで持っていけていないあたりがクズな感じである。炎上したものがある程度落ち着いてきたら「まあ落ち着いてきたし」と思ってまた改善せず放置してしまうのだ。

怖いから何もしたくない,ちょっと安心だと思ったらまた目先の楽しいことに心奪われてまた事態が悪化する火種を生む,とか,そんな感じの繰り返し。

 

人一倍失敗したくない気持ちが強いはずなのに,なぜ失敗しないように手を打つことができないのか,というテーマには,結局就職したあたりからずっと向き合っているはずにも関わらず,まだ克服できていない。

根がものぐさなのはもう治らないんだろうか…。

治そうと思って動き続けないと治らないんだろうな。

 


Perfume 「TOKYO GIRL」 新ドラマ『東京タラレバ娘』 主題歌

 

きょうはドラマ「東京タラレバ娘」の一話目の放送日で,あっそういえばという感じでテレビをぼうっとつけてみていたのだけれど,案の定心臓が痛くなった。完全に自分の心をえぐりに来ている。

実写版のキャストが合ってないとか演技がどうとかは今回の自分にとってはあんまり問題じゃなくて,漫画を読んだ時に感じた殺傷力が映像化されることでぐっと威力を増して自分を刺している気がして,非常に辛かった。

こういうのにハマってしまう自分は,物語のなかでひどい目にあっているキャラと自分を重ね合わせて,「こういう惨めな目にまさに遭っているのでどうか今の自分は見逃してやってください,十分惨めなのは分かっていますので」と勝手に胸の傷を見せた気になって,勝手に許しを乞うているだけなような気がする。

 

胸の傷を見せて許しを乞うても問題は解決されない。

問題は,原因を分析して処理して,再発防止策をとらないと解決されない。

 

「傷ついた」と言ってわめいてる場合ではないのだ。自分で自分を育てないと,まだまだ子どものままの自分になってしまう。あまりインスタントな快感に頼りすぎないようにしよう。

 

ドラマは面白かったんで見ます。あーちゃんがそつなく声優こなしてて結構びっくりした。

認識すること

息がうまくできない時がある,という話をします。

 

道を歩いていて,ふと横道にある何かに気をとられて振り向いたりした時に,「あ,なんか今自分,息してるな」とふと感じる時があって,そこから数秒間息をするリズムが乱れるときがあります。

「あっ,あれ,自分ってどうやって息してたんだっけ」って感じに意識が自分のしている息の方に向いてしまって,なんだか慌ててしまうのです。

生きてれば誰だって息はするし,心臓は動くし,血は身体を巡っています。そんなこと何から何まで常々意識してしまうと心がパンクしてしまうのですが,時々「あ,そういえば」とそのことを認識することって,結構大事だと思うのです。

 

朝起きる。ご飯を食べる。仕事をする。帰って風呂に入って,飯を食べて寝る。時折他の人と騒いで,夜更かしなんかしたりして,旅行になんか行ってしまったりして。日々の生活にバリエーションはあるけれど,言葉にするとこのように類型化できてしまう。

一応毎日,少しは違うことが起こっているはずなのに。

 

同じようで,でも少しだけ違うことを認識できるかどうか。

それで,日々を新しく生きられるか否かが規定されるように思うのです。

 

今日の息は浅い。今日の息は速い。

明日はどんなふうに息をしているのか,ふと考えるだけでも,明日は新しくなるのかもしれません。

孤独と不安と,上手く付き合うこと

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

たまたま本屋でレジ前に積まれていたこの本が目に留まったので,沖縄にひとりで旅行をしている時にもくもくと読んでいた。

 

「不安」には,前向きな不安と後ろ向きな不安があるらしい。

後ろ向きな不安は思考を止め,自分を振り回す不安。前向きな不安は自分にエネルギーを与える不安らしい。なんだかわかるような気もする。

 

この中でなるほどなあ,と思ったのは,「悩む」ことと「考える」ことは違う,ということだった。悩むというのは結論が出ずただうだうだしているだけで,考えるというのはなにかを解決するためにアイデアを出す,ということらしい。

自分はどちらかというと悩むことがほとんどだなあ…と思った。結局は悩む前に動けってことか。

 

もうひとつ違うと書いてあったのは,「他人」と「他者」は違う,ということ。

「他人」は自分に関係がない人,「他者」は自分に喜びと同時に不安や憎しみをくれる人,ということらしい。

そして,「他者」と上手く付き合っていける人が本当に孤独と不安と付き合える人だ,とも。

 

人生はいいことだけではなくて,必ず良くないこともある。それを認めた上で,その両方を受け入れ,上手く距離を取りながら付き合っていける事が大事だ。

プラスしかない人生なんて,きっとつまらないから。

愛されなかった人が愛すことは可能か

 ふたつ前の記事で宮本七生さんの写真展の感想を書いたのだけれど,最近愛すること,愛されることについて考えることが多くなった気がする。

今日は,そのことについて思うところを書いてみようと思う。

 

(ちなみにその感想記事はこちら↓)

seesawseen.hatenablog.com

 

 

人を愛せる能力を自然と備えるかどうかは,「幼少期に愛されたか」に起因する

人って本当におおまかに2つにわけると,「素直に人を信じ,愛せる人」と「なかなか人を信じ,愛せない人」になると思う。

前者は誰とでも分け隔てなくコミュニケーションをとることができ,周囲に優しさを振りまくことができ,特定の誰かを自然と愛することができる。

一方で後者は何らかの要因でコミュニケーションをとるのが苦手な対象が多く,交友関係は限定的か殆ど無く,恋愛はうまくいかず,続かないか,トラブルばかり起こしている。

 

かなり乱暴な分け方をしたが,人間がこのどちらのタイプに属するかは,「幼少期に自分自身が十分に愛されたか」によると思う。

kamipro.com

 

数年前に「黒子のバスケ」脅迫事件という,もう本当にとばっちりとしか言えないような事件があったのだが,この犯人である渡邉被告の最終意見陳述書のなかで,被告自身がなぜ自分が犯罪に走ったのか,という原因について解説している。

少し長いが,記事内から実際の文章を引用する。

 

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか? 端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。


乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。


またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。
この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。


このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。


幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。


「生ける屍」には思春期がありません。感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない「生ける屍」は、それらの問い直し作業をやりようがないのです。

 

感情と規範を十分に与えられずに育った人は,自分の心の中心に感情と規範がリンクしていることにより感じる「安心」がないために,自身の感情を人と,社会とリンクさせることができない。そのことにより人間関係や社会の中から疎外され,更に生きづらさを増していく,というのが,上記の文章の要約である。

このような人は,そもそも人間関係を構築する,という点において大きなハンデというか,障壁を持った状態でのスタートとなる。人を愛すとかいう次元ではないのだ。

 

 

ここまで絶望的な人生をたどっている人はそう多くはないのかもしれないが,幼少期に構築される人間関係,というのは本当に人生にわたって影響するものだ。親からふと発された一言によって,思わぬショックを受けることも少なくない。

自分はゲイだが,9歳位の時に密かにプロレスラーとかの写真を新聞から切り抜いて学習机に隠していたのを親に見つかり,「同性愛は今なら治せるから」と言われたことを今でも忘れていない。

その頃はまだ性的な衝動もなかった頃だし,自分でもなんでその写真が好きなのかの理由が分からなかった頃だった。その時期に「お前がしていることは病気だ」という内容に等しい発言をされたことは,そう簡単に忘れられることではない。

 

 

ショックは消えないが,習慣と訓練で愛することは可能である(…はず)

多かれ少なかれ,なにかのショックが元でその後の人間関係の形成に課題を感じている人は少なくないと思う。

過去に受けたショックというものは,記憶から消し去ることは不可能だ。というか,忘れられたとしても結局良好なコミュニケーションを取れた経験がなければ,結局それを再現して人を愛することはできない。

なんでもそうだが,全くのゼロからなにかを生み出すことなど不可能である。なにもないところから愛なんて生まれてはこない。だとすれば,十分な愛が与えられなかった人は,愛を「学ぶ」必要があるのだ。そして,それを実際の人生で再現しようとし続けることでしか,それを克服することはできない。

学ぶ先は小説やドラマでもいいが,それだと無駄に可能性の低い,ロマンチックすぎる方法ばかり学んでしまって余計こじれるかもしれない。

だから,現実に生きている人から学んだほうがよい。

 

その学ぶプロセスを,恋愛ネタに強い女性ライターのトイアンナさんは以下のようにまとめている。

①これまでの他人と接してきたパターンを把握する
②他人と対等なパートナーシップを築けている人の行動パターンを知る
③自尊心を取り戻していきながら、徐々に②の行動を取るように努める

toianna.hatenablog.com

 

ゲイの暮らしって,どこで見られるんだろうなあ。

ISMagazineでも買ってみるか。