原作もアニメも全く見てないんですが、映画「ちはやふる 上の句」を観てきました。
ヒトであること,とは
にんげんをやめればやりたいことや楽しいことを全部やりきれるのかもしれない。
— たいち (@dragonspr111) March 21, 2016
今日のこのツイートは「人間を超えた超人的な体力と精神力をもってあらゆることを楽しみ切りたい」という意味だったのだけれど,書いた少し後になって違和感を覚えた。
そもそも自分が「ヒト」であるかすら怪しい,みたいな気持ちがどこかにあるのだ。
だからこのブログタイトルなのだ。
ヒトであるためにはもっと感情が豊かで,他人と愛をはぐくむことができて,友人と楽しくあることができて,などなど,いろんなことができる必要があるのでは,という気持ちがあったのだ。
そして自分はそれに満たない,ヒト以下のけだものに近い,ヒトに飢えた存在なのだ,という気持ちがあった。
自分のこの気持ちは,高校で読んだ「山月記」に大いに感化された影響だと思う。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を持っている,との自覚を強く持っていたために,ヒトを名乗るには忍びない,という気持ちがあったのだと思う。
でも,こんなふうに悩んで迷って,克服することができる,というのはヒトができることのような気がする。
ヒトの定義とか考えるのめんどくさくなってきた。
生きよう。
映画「セーラー服と機関銃―卒業―」―見入ること,入り込むこと
今日は橋本環奈主演「セーラー服と機関銃」を観てきたんだけど、元祖・薬師丸版が「何も知らない新人女優・薬師丸ひろ子の戸惑いをヤクザの組長になった女子高生と重ねる」ことで成功していたのに対し、橋本環奈さんがあまりにも優秀でなんでも出来てしまうので「極道の妻たち」みたいな映画になってた
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年3月12日
今日はこのツイートから始まる一連の感想がとても気になったので,「セーラー服と機関銃―卒業―」を観てきました。
(以下,ネタバレ含まれるのでご注意を。ストーリーはほぼ典型的なヤクザ映画だから別に知っても大差ないと思いますが)
一言で言うと「橋本環奈の肝の据わり具合が完璧すぎて半ば狂気じみてる」映画でした。優秀な映画。
橋本環奈のプロフィールをあまり知らないまま行ったのだけれど,彼女は映画初主演のアイドルらしい。それにもかかわらず伊武雅刀や武田鉄矢を始めとしたヤクザ役の中で全く臆しない演技を見せ,むしろ組長としての風格とか迫力を見せて物語を圧倒していたのが素晴らしかった。
彼女の演技で特に凄かったのは「絶望」と「怒り」の表情の作り方。自分の顔の上に「怒り」という仮面をつけました,というような作り物の表情ではなくて,自分の素の表情の上に内側から怒りを全面に噴き上がらせたような,こちらに迫ってくる迫力を感じた。人間が他人を殺したいほどの怒りを湧き上がらせるプロセスを忠実に再現しているような感じがした。
きっとその「感情のプロセスを忠実に再現できる能力」が彼女にあったから,一度ヤクザとして死線を越えてきた経験を持つ星泉(脚本の元になった原作では,星泉は一回ヤクザになって諸々あった結果,組を解散したあと,という時間設定になっている。だから周りの同級生も泉に理解があるし,彼女がヤクザだったことも知っている)がカケラも恐怖を感じることなく立ち向かっていく様子とマッチしたのだと思う。死を恐れず義に従って敵に立ち向かう意気はヤクザには重要な資質だが,本来女子に背負わせるにはあまりに重い。でも彼女は忠実に再現する。そのアンバランスさが,狂気さえ含んでいるように見える。
映画の中では,彼女は女子高生でありながら,組長としての風格とドスを備えた,本物の極道であった。
と,橋本環奈自体はもう本当に凄まじかったのだけれど,ストーリーの細かいところをちょっとつついてみるとやれ「若者が田舎に帰ってこないのが悪い」だの「若者は選挙に行かないからマトモな政治が成立しない」だのあからさまなメッセージが挿入されているのが気になりはした(しかもこの映画,JKとJC向けにマーケティングをしていて「角川40周年記念映画」みたいなお題目までついてしまっているものだから,なんかちょっと意図のようなものを感じてしまうところもある)。でも,それを通り越して橋本環奈の存在感が凄くて吹っ飛んでしまった。
自分が映画を見る時は「瞬間の気持ちよさ」とか「一瞬の表情の綺麗さ,凄さ」を重視しているのかもしれない,とちょっと思ったりした。それだけキャラに感情移入して捉えているのかもしれない。
同時にいくつかのことを考えるのがあまり得意でないのも,映画の見方に影響しているのかもしれない。
いや,でもこの映画は非常に良かった。レビューを見ると「演技が下手」とか「そもそもなんで今セーラー服と機関銃なの」(これはちょっと思ったけど)とか結構酷評されてるけど,自分は観てよかったと思える映画でした。久しぶりにこの感覚を伝えたくて連絡ベタな自分がLINEを飛ばしたほど。
興行収入がボロボロなのがもったいないくらい,あまりに人が入らないままでいるには惜しい映画です。観てください。お願いします。
「常識」が誤っている可能性を考慮に入れること
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ことばは紡ぐ対象によって効力が変わる
こういう,「確かにそうかもしれないけれど,別にそんなに心にも刺さってこないし,残らない」記事は至る所にある気がする。
記事を書いた人に落ち度はない。きっと親切心で書いているのだ。自分の実感したことを,他の誰かにも知って欲しくて書いたのかもしれない。
でも,きっとほとんどの人にはこの記事は心に残らない。
伝えたい対象が広すぎるのだ。
「これはわたしに向けられたことばだ」という意識が受け手になければ,深く響くことはない,白々しい言葉になる。
ONE OK ROCK - A Thousand Miles 【 Full HD 1080p 】
歌は,基本的に「あなたに歌う」ことが組み込まれたことばの形だと思う。歌うときには誰かを思い浮かべる。もしくは誰かの目の前で,その誰かのために歌う。だから,紡ぐことばには当事者性が与えられ,心に刺さるものとなる。
きっとだれでも,「自分のために用意されたことば」を探しているのだと思う。
それを発するのがアイドルか,作家なのか,隣に座っている人なのかは,人によって違う。
でも,きっと一生かけてその言葉たちを探していくのだろうし,そうやって拾ったり,与えられたり,投げかけられた言葉の数々が,人となりを作っていくのだろうと思う。
心を自分で殺さないように話をしよう
昨日長々と恋愛について記事書いてたんだけど,考えてても苦しかったし書いてる途中もずっと苦しかった。もう自分がどMなんじゃないかってくらい苦しかった。
だいたい苦手なこととかコンプレックスに思ってることとか考えたり書いたりするのほんとうに,苦しい。でも考えずにいられない時がある。で,ひとりで向き合っててもっと苦しくなっていく。
解決し得ないこととか,どうやったって太刀打ちできないことと比較をして,自分が小さい存在なんだ,ということをときどき確認しようとしているみたい。
そして,ずっと昔から同じようなことを繰り返してきたような気がする。
高校生のとき,まだ自分がひょろひょろで貧弱なメガネ男子だったころ,同じクラスにいた野球部の男子の姿を追いかけている時があった。彼はエースで4番打者,身体が大きく活発な人で,自分とは接点がなにもなかったから直接話をすることもほぼなく,いつもその姿を遠いところから見ているだけだった。
話しかけたかったし,仲良くなりたかったけれど,きっかけもなかったし,勇気もなかった。共通点も多分なかった。自分から接点を作ろうとすることもなかった。
一度だけ,直接話しかけられた時があった。球技大会でソフトボールをしていたとき,ほぼ野球ができなかった自分がセカンドに立った時があった。2塁に送球することがあんまりないのでは,という判断だったのかもしれない。でもその試合の時は,その好きだった人が打った球がまっすぐ自分の方に向かってきた。
ありったけの反射神経を動員して胸の前にグローブを出したけれど,球はグローブの上のほうに当たってそのまま僕の鼻を直撃した。勢いが死にきっていないソフトボールが直撃した僕の鼻からはすぐに結構な勢いで鼻血が出始めた。その時,球を打ったその人が駆け寄ってきて,自分に話しかけてきたのだ。
自分はその時鼻の痛さと自分の間抜けさからくる恥ずかしさで何にも考えることができなかった。多分大丈夫?とかごめんな,とか話しかけられてたんだろうけど,もう一切記憶にない。たぶん大丈夫だから,とか言いながらダッシュで保健室に駆けて行ったんだと思う。
とてつもなく恥ずかしかったけど,まともに接点と言えそうなものがあったのはそれが始めてだったはずだから,内心ちょっと嬉しかったんだと思う。でないと,こんなに強く覚えているはずがない。
結局それからもまともに話すことがなく卒業してしまったのだけれど,彼の卒業文集のプロフィールに「好きな歌手:ACIDMAN」と書いてあって,全く興味がなかったけれどアルバムを買って必死に曲を聴いていた記憶がある。
聴いたアルバムの中で,これが唯一好きになれた曲だ。他の曲には全然共感できなかった。仮にあの時がきっかけで話すことがあったとしても,音楽の趣味は合わなかったかもしれない。
きっと望み通りに物事が動くことよりもどう足掻いたって叶わなかったことのほうが人生では多くて,きっと数えきれないくらいやりきれない思いを人生でしてきただろう,とは思う。
でも,その気持ちを自分で必要以上に増幅させて,自分で自分の心を殺しすぎてきたんじゃないか,と時々思うことがある。ある時はそれが「諦め」となり,別の時は「嫉妬」になる。「後悔」になることも,数えきれないくらいあったはずだ。
結構不毛である。いつかは救われることを信じて,自分で自分の心を殺さないように話をしよう。
ずっと先の未来を想像すること
今日,必要があって普段は本屋で絶対覗きこむことのない領域である週刊誌コーナーに寄ったのです。今話題のセンテンススプリングとかある場所。
今回用があったのは週刊SPA!なんですが,表紙にすごくでかでかと
「40代以上「無職」の絶望」
って書いてあって,ひいいってなってしまいました。
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こんな感じ。グレーになってるのはTOKIOの長瀬なんですが,それを抑える勢いででかい。一緒に並べて大丈夫なのかこれってくらいの存在感がある。
気になってバックナンバーも検索してみたんですが,見事におどろおどろしいタイトルが並んでいました。
「会社員が死ぬには理由があった 「早死にする人」ランキング」
「中流サラリーマンの多くが老後「貧困層」になる 「新型下流社会」の衝撃」
「2015年版 「クビにしたい40代」の特徴」
などなどなど。
自分は今のところなんとか食えているし,雑誌に載っていた人のような目にもあっていないけれど,いつそういうことが降りかかってくるかわからない。
というか,このまま働いていて20年後とかどうなってるんだろう,と考えると,結構もんもんとして眠れなくなりそうになる。
こっちの世界では若い人が一般的にはもてはやされるけれど,50代になった人たちがどうしているのかは,あまり良くわからない。アプリとかでもそんなに見ない。ぼくらは「結婚」という仕組みがないぶん,ずっと一緒にいる,というようなことが実現されることが少ない。老後の事なんて皆目検討もつかない。
子どももできないから面倒を見てくれる人もいない。そんな状態でどうやって生きていくんだろう,と考えると,けっこう怖くなってくる。
そんなに考えこんでも仕方ないので,いま大事にできるひとやことを大事にして生きていくのが当面は大事だな,と思いました。
ゲイ専用の老人ホームとか,できたらいいのになあ。おじいちゃんになるまで暮らしたいともそんなに思わないけれど,生きるのなら生きやすい環境で,生きやすい人に囲まれて過ごしていたい。