いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

頭の違う部分を鍛える

異動して一週間が経ったのですが,毎日とてもねむい。おかげでよく寝られはするのですが,本気で寝足りない。頭が消耗している感じがする。

案外平気かもと自分では思っていても,慣れていない環境に入り込んで普段と違う物事を考えて,ということをするとどうしても普段よりエネルギーを使ってしまうのだなあ,としみじみ思いました。そしてこういう体験,入社したてのころ以来とても久しぶりでなんだか新鮮な感じ。

緊張すると空気を飲み込む癖があるので,結構な勢いでげっぷが出ます。早くなじめますように…

過去を見つめなおすこと

今月は有給休暇消化のためにだいたい週休4日マンと化しているので,いろいろ溜まっていた本と雑誌を読み進めたりとか,いろいろなものを整理していたりしています。

ここ数日は何か仕事上に役立つことがあるんじゃないかと思って就活のときにせっせと書いていたノートを見返しているんですが,まあ書かれている内容の薄いこと…。社会に出てないから当然といえば当然かもしれないけれど,あまりにも薄い。しかも結構虚飾が入ってる。

就活で出すESなんて何割かは盛った内容であるとは思うのだけれど,せめて「自分はこんな人です」ということが文から読み取れる感じである必要があったとは思うのです。でも,なんか今見返してみると「さすがにこれ盛り過ぎじゃないか」とか,「ちょっとそこからその結論引っぱり出すのは無理があるんじゃないですかね」とかツッコミ入れたくなる箇所が沢山出てきて,全然自分じゃない気がするのです。

一般論しか書いてない,冗長で,結論がわからない文章。でも,この文章が当時の自分を的確に表していたのかもしれません。そんなにまじめに将来のことは考えず,かといって当時打ち込んでいたこともそこまでなく(唯一やっていたものといえば写真と読書くらいだったけれど,めっちゃハマってるという程でもなかった),大学の授業もまともに受けていない。

何をするにもあまり興味がない,適当な人間であるという印をつきつけられたような気分になってちょっと自分に引いてます。

ただ,まだこのことを笑い話にできるぶん,今はマシだと思えているのだと思います。いつか,このブログの文章もあとから見直して「こんなことwwww言ってるwwwwプゲラwwwww」とか思う時が来るのかもしれません。ちょこちょこ何かしら記録を残しておくと,こんな風にたまに自分を思い返して楽しむことができていい暇つぶしになります。

 

過去を振り返るとき,自分はあまり「思い出」を当てにしません。

思い出はいつも主観的なものだからです。

だいたい自分のいいように結論を捻じ曲げるし,美化します。

そうして,都合の悪い部分をすべて振り落とした妄想を「思い出」に据える,ということが間々起こり得ます。

だから,その時思ったことは新鮮なうちに文章に落として保存して,いつか見返す時のためにとっておくようにしています。

文章にも主観は入りますが,文章というものは固定化されたメディアです。最初から認識が歪んでいる場合は別ですが,基本的に書いた当時の気持ちが時間とともに揺らぐことはなくなります。

そうやって,自分は過去の自分と冷静に向き合うことにしているのです。

 

いつも読んでいる雑誌「ダ・ヴィンチ」で羽海野チカ特集が組まれていて,『3月のライオン』の中でヒロインの女の子がこんな台詞を言ったようです。

「ひな 世の中にはね その場しのぎで自分で勝手に話を盛って 話してるうちに 『ホントにそうだった』って思い込んじゃう人がいるらしいの」

 お仲間界隈では身につまされる事が多そうですね。

気をつけよう。 

 

3月のライオン 11 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 11 (ジェッツコミックス)

 

 

 

物語をつむぐ理由

きょうはけもケットに行ってきました。簡単に言うとケモナー向けの同人誌即売会です。中学高校大学と個人サイトが全盛期だった時,HTMLコードをかじりながら奮闘してケモホモ小説サイトを作っていた自分としては(この歴史自体は黒歴史ですが),一度は行ってみたいと思っていたイベントでした。

現地に行ってみてびっくりしたのが,買いに来る人たちの人数。整理券を配って人数整理をしなければいけないほどで,400人ずつ入場するタームが3回あったところをみると述べ1500人程度はいたように見えました。川口に見るからにオタクっぽい人がたくさんいて,何かとても異様な光景でした。おばちゃんとかになんかすごい目で見られた。

サークル数も100を超えていて,結構沢山の人が作品を出してるんだなーと感心してしまいました。そしてダッシュで同人誌を買い漁るわたし。案外買ってしまった私。こうしてまたクローゼットが狭くなる…

しかし,かなりマイナーだと思っていたケモノものにこんなにも人が集まっていて,時代は変わったんだなあ,としみじみ思いました。自分がサイト運営してた頃は,そんなにお仲間がいない気がしていたのに。

そんなこんなでエロ本をそれなりにたくさん買ってほくほくしていたのですが,サークルの中で小説を書いていたり,非エロの漫画を書いている人は殆どいないんだなー,と参加後に友人とお話をしていたのでした。

 

基本的に,人生に何の疑問もなく満足している人は,創作をしません。

なにか作品をつくりたいと願うのは,そこに処理しきれない何らかの不満や不安,怒りといったものがあり,それを吐き出したい,あわよくば理解して欲しい,という思いがあるからです。その名前もつけられない感情をどうにか表現したくて,自分は小説というものすごく迂遠な表現方法を使ってその気持ちを頭の中から追い出していました。同じようにサイトを運営している何人かの人と志を共にし,励まし合ったりたたえ合ったりもしていました。そうすることで,結構深いところで理解し合い,寂しさを紛らわせ,欲求を満たしていました。

ただ,SNSがすっかり生活の中に溶けこむようになってしまってからは,欲求を満たす部分が全体的にどんどんと肥大してしまっているのではないかなあ,と思ったりもします。

さみしければ「さみしい><」とでもTwitterでつぶやけばリプライが飛んで来るようにはなったでしょう。本人の顔写真?必要ありません。身分はいくらでも隠せますし,偽れます。都合のいいように改変できるんですから,返事がたくさんくるようにプロフィールをごまかすくらいは楽勝でしょう。

エロ画像にもエロ動画にもすぐアクセスでき,あっちの欲もすぐに満たせます。

少なくとも表面的には満足することが増えてしまったがために,わざわざ他の手段を使って自分のことをわかってもらう必要はなくなってしまったのかもしれません。

ただ,本質的には人の内面は変わらないので,表面的な交流で精神を落ち着かせられなくなる時はいつかくるんだろうな,とは思います。SNSは即物的な交流はできるけれど,深くまでは踏み込めない。

だから,あんなにも沢山の作品が未だに生まれるのだと思います。

 

今回同人誌を買い漁って読んで,ひさびさに自分で作品作るのもいいな,と創作欲が呼び起こされてきました。

鉄は熱いうちに打て,ということで,気持ちが落ち着く前にぼちぼち小説書きを再開しようかな,と思います。

 

あと5時間

今年もあと僅かになりました。実家に帰ってまったりする年末年始はいつもどおり。北の果ての空気は痛いほど冷たくて,でも心地良い感覚がします。

年越しそばも食べたし,三が日を越せる程度の食料は買い込んだし,もうソファでゴロゴロしているほかにすることがありません。ぼーっとしていると,今年のいろんな出来事が思い出されてきます。

 

今年は色々と成長できた実感があった一年でした。仕事では自分でもある程度及第点といえる結果も残せたし,体格のほうも目標にしていた85kgを越え,大分大きく成長できました。いろいろな人と色々楽しいこともできました。結構休みなく仕事に遊びにと動き回っていたので,この一年はとても短く感じました。

基本的に「やりたいことは落とさず全部やる」という気持ちでここ数年行動をしてきたのですが,それは同時に「自分の欲とどのように向き合っていくか」という命題と真正面からぶつかることを意味します。

今年は,自分の欲とどう付き合うかを考えさせられた一年でした。

 

もともと細い体型にコンプレックスがあったのをきっかけに身体を鍛えるようになり,今年にほぼ理想としている体重までは増やすことができたので(筋肉量はまだすくないですが),やっと自分の見た目に納得がいくようになってきました。

割とその見た目で写真を投稿したりするといいねが沢山降ってきたりするので,なんか楽しくなってきてしまって自撮りを沢山アップしたりしました。今まで満たせなかった承認欲求と自己顕示欲がもう,なんか爆発してしまって。

まあそれは今に始まったことではなく,大分身体が整ってきた去年の後半あたりから傾向はありました。だってなんか楽しいんです,通知がピコピコなるのが。数が増えると嬉しいんです。

自覚はしていて,一応今年はリアルで遊んだりする機会を増やして承認欲求的なものを逃していたには逃していたのですが,たまにはいいじゃんって感じで投稿していました。

 

多分精神衛生的にはそういうことしないほうが健康に生きられるし,無用な衝突を起こさなくて済むんですけど(実際リアルに注意されるし。すいません,ありがとうございます),多分この欲求を完全に抜くことは無理だと思うんですよね。だって元がコンプレックスまみれなんですし。認められたい欲求は多分,しばらくは減らない。

 

だとすると,きっと考える必要があることとしてはその欲求をどう健全な方向に捻じ曲げていくか,ということだと思います。どうすれば,他人にわざわざ確認しなくても欲求を満たせるようになるか。

なので,2016年は「自分が自分で満足できるまでやり切る年」にしようと思っています。

自分の肉体改造も,頭脳の研鑽も,人付き合いも。「ああ,ちゃんと自分は全部やり切れたんだな」と自分で思えるところまでやり切れたかどうか,で自分を評価する年にしたいと思います。

 

今よりもっとガチムチになって,挫折しっぱなしの語学も勉強しなおして,大事にしたい人ととことん遊んで…と,今年よりも短く感じられるような,より濃い一年になれるように一層頑張ります。

今年よしなに付き合ってくださった方々,来年もどうぞよろしくお願いします。

あとやっぱり,たまに自撮りあげてしまうのは笑って許してあげてください。笑

 

------ちなみにだいたい今年どんなことがあったか-------

1月:柔道メンバーで箱根温泉へ。誕生日祝ってもらって嬉しくなる。

2月:ライオンキング観劇。とか大阪行ってた。

   あとアキバナイトでユリ熊嵐のコスプレした。

   これがきっかけでコスプレ熱が上がる。

3月:福岡出張行ってぺいくんと初対面。

   単位展が面白かった。

4月:柔道合宿で名古屋に。酔って暴れて「悪魔」の称号をいただく。

   あとまた大阪と北海道に出張に行った。

5月:伊勢に旅行行ったり香川に出張したり。あとBBQしに行った。水の中で暴れる。

6月:ねごとの「アンモナイト」のジャケ写そっくりにスタジオ撮影してもらう機会があった。

   あとアキバナイトでリザードンのコスプレをした。

7月:agehaであっちゃんの勇姿を見る。

8月:花火大会2回。と伊豆に海水浴に行く。彼氏ができる。

9月:ハワイ旅行とPerfumeの武道館ライブに参戦。

10月:草津旅行行った。

   あとアキバナイトでスプラトゥーンのコスプレした。

   ハロウィンでは白熊のコスプレした(がやや不完全燃焼)。

11月:彼氏にふられる。めっちゃうまい寿司を食う。

   コスプレ鍋会なるものを実施。

12月:忘年会デブエットで3kg増量し,目標体重達成。

   九州出張。

   そして今。

 

こう見ると案外各地飛んでたなあ…

来年も色んな所に行けるといいな。

テストにのみ現れる「満点」という幻想

テストで100点満点とか,TOEICで満点とか,この世には「満点」というものが存在する。与えられた問題にすべて正解した時,それは得られる。それを得ることができると,大抵の場合は「へえ,それはすごい」という評価を受け,一定の評価を受けることとなる。

ただ,「満点」という概念が存在するのはそういったテストの類だけだ。だけど,「満点」というのは評価として使いやすい概念なので,ほかのものの評価の際にも取り入れられたりすることがある。でも,そのせいで,逆にあらゆるものに「満点」や,そして「正解」があるように誤解してしまうことが,よくあると思う。

 

人生には,「自分の人生は良い人生だった」という評価は存在しても,「自分の人生は満点だった」という評価は存在しないと思う。あったらちょっと怖い。

満点,ということはノーミス,ということであって,つまり「自分の人生でミスったことはただの一度もありませんでした」と言っているのと同じだ。そんなことは,絶対に有り得ない。もしあると答える人がいるとしたら,その人は何かの基準を捻じ曲げて自分の選択を「正解」に変えているだけだと思う。

そもそも「正解」だって存在するかも結構怪しい。テストでの正解だって「いまのところの理論や定説で最短距離で表現した場合の最も確からしい解」なのであって,別にそんな唯一無二の正解ではないものも多くあると思う。

 

結構へりくつみたいだけど,「正解」が必ずある,と信じ込んでいる頭だと,一度「正解」と信じたものが正解であるかが揺らいだときに,それが正解ではない可能性を信じられなくて,よい対応が取れないときがある。

そもそも「絶対的な正解」がないと思えば,正解だと思っていたものが違っていてもあんまり驚かずに対応できるし,「満点」もないと思うことができれば,ずっと今より良くするにはどうしたらいいか,と考えて行動できる。

 

だから,満点なんてないと思いながら生きるし,いつまでも及第点からどこまでプラスを積み上げるかを考え続けながら生きたいし,現状に満足して立ち止まりたくない。

もうちょっと,頑張ってみよう。

自分の見える世界がこの世のすべてではない

いろいろ思うところがあって転属希望を出し,それが受理されて,自分は今の部署でカウントダウンタイマーを抱えた時限付きの社員になった。今まで一緒に仕事をしたことのある,わりと遠い部署の人からも連絡が来たり,引き継ぎ先をあわあわしながら決めたりしなければならなかったりして,ちょっとしたお祭り状態になっていたりする。

 

引き継ぎ先を決めるにあたり,自分が抱えている業務を洗い出して,引き継ぎ資料を作って…ということをしなければならない。過去に担当した業務もあわせて振り返っていると,その中にぽつぽつと「これはいったいなんのためにやっていたんだろう」という業務がいくつか入っていた。結構なお金をかけてつくったものなのにとんでもなく失敗していたり,3手で済むものに10手くらいかけていてかなり無駄だったりと,結構てんこ盛りである。

組織が大きいと,いろいろなしがらみがあってうまく調整ができなかったり,詰め切れなかったりして,思うとおりに全体の構造がいびつになってしまっているプロジェクトは必ず出てくる。

構造がいびつなだけならまだよくて,「別にそんなこと全然しなくても良かった」という場合すらある。要するにやったことがほぼ無駄になった仕事である。自分自身は「そうだよなあ,これじゃ意味ないよな」という経験を積めるけれど,やはりちょっと悲しい。

 

今の部署は楽しいことも多いけど,仕事になるとちょっと引け腰になっている人があ多い。新しい部署はいい場所だといいな。

右手

感情の振れ幅が一定の値を超えると、決まって右手に神経痛のような痛みが走る。
ぴりぴりと手に伝わるそれは、脳裏に火花が突然走った時のような、くらくらした感覚に少し似ている。

頻繁に怒ったり泣いたり笑ったりと、感情が忙しい方ではない自分でも、年に数回はそういう時が来る。
一緒にいて心臓の音が高鳴ったとき。
勇気を振り絞ったとき。
それが崩れてしまったとき。
嬉しいときも、悲しいときも、ひとしく僕の右手はぴりぴりと痛む。

でも、昔はもう少し痛むことが多かったかもしれない。
いまから思えば明らかに見当違いな事や、悩んでも無駄なことでもっと怒っていたし、悲しんでいた気がする。そのわりに、嬉しさのあまり感情が振り切ってしまう、という割合は少なかったように思う。

その頃から時間が経って、少しは「どうしたって無駄なこと」が何か見分けられるようになった。
ああそうか、そういうこともあるんだよな、と思えるようになると、大抵の「悲しいこと」や「切ないこと」は「どうにもならないこと」にカテゴライズされるようになって、感情のボリュームを絞っていくようになっていく。
そんなことができるようになることを、「大人になる」と呼ぶのかもしれない。

だから昔と今を比べると、「悲しいこと」や「切ないこと」が少なくなった分、相対的に「嬉しいこと」が起きて右手が痛む割合は大きくなってきたように感じる。

それでも、悲しいときはくるわけで。


右手

右手



でも、悲しさで右手がぴりぴりと痛むと、まだ自分の感情はちゃんと生き残っているんだなあ、と少し安心もする。

今度痛くなるときは、どうかそれが嬉しいことでありますように。