いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

テストにのみ現れる「満点」という幻想

テストで100点満点とか,TOEICで満点とか,この世には「満点」というものが存在する。与えられた問題にすべて正解した時,それは得られる。それを得ることができると,大抵の場合は「へえ,それはすごい」という評価を受け,一定の評価を受けることとなる。

ただ,「満点」という概念が存在するのはそういったテストの類だけだ。だけど,「満点」というのは評価として使いやすい概念なので,ほかのものの評価の際にも取り入れられたりすることがある。でも,そのせいで,逆にあらゆるものに「満点」や,そして「正解」があるように誤解してしまうことが,よくあると思う。

 

人生には,「自分の人生は良い人生だった」という評価は存在しても,「自分の人生は満点だった」という評価は存在しないと思う。あったらちょっと怖い。

満点,ということはノーミス,ということであって,つまり「自分の人生でミスったことはただの一度もありませんでした」と言っているのと同じだ。そんなことは,絶対に有り得ない。もしあると答える人がいるとしたら,その人は何かの基準を捻じ曲げて自分の選択を「正解」に変えているだけだと思う。

そもそも「正解」だって存在するかも結構怪しい。テストでの正解だって「いまのところの理論や定説で最短距離で表現した場合の最も確からしい解」なのであって,別にそんな唯一無二の正解ではないものも多くあると思う。

 

結構へりくつみたいだけど,「正解」が必ずある,と信じ込んでいる頭だと,一度「正解」と信じたものが正解であるかが揺らいだときに,それが正解ではない可能性を信じられなくて,よい対応が取れないときがある。

そもそも「絶対的な正解」がないと思えば,正解だと思っていたものが違っていてもあんまり驚かずに対応できるし,「満点」もないと思うことができれば,ずっと今より良くするにはどうしたらいいか,と考えて行動できる。

 

だから,満点なんてないと思いながら生きるし,いつまでも及第点からどこまでプラスを積み上げるかを考え続けながら生きたいし,現状に満足して立ち止まりたくない。

もうちょっと,頑張ってみよう。

自分の見える世界がこの世のすべてではない

いろいろ思うところがあって転属希望を出し,それが受理されて,自分は今の部署でカウントダウンタイマーを抱えた時限付きの社員になった。今まで一緒に仕事をしたことのある,わりと遠い部署の人からも連絡が来たり,引き継ぎ先をあわあわしながら決めたりしなければならなかったりして,ちょっとしたお祭り状態になっていたりする。

 

引き継ぎ先を決めるにあたり,自分が抱えている業務を洗い出して,引き継ぎ資料を作って…ということをしなければならない。過去に担当した業務もあわせて振り返っていると,その中にぽつぽつと「これはいったいなんのためにやっていたんだろう」という業務がいくつか入っていた。結構なお金をかけてつくったものなのにとんでもなく失敗していたり,3手で済むものに10手くらいかけていてかなり無駄だったりと,結構てんこ盛りである。

組織が大きいと,いろいろなしがらみがあってうまく調整ができなかったり,詰め切れなかったりして,思うとおりに全体の構造がいびつになってしまっているプロジェクトは必ず出てくる。

構造がいびつなだけならまだよくて,「別にそんなこと全然しなくても良かった」という場合すらある。要するにやったことがほぼ無駄になった仕事である。自分自身は「そうだよなあ,これじゃ意味ないよな」という経験を積めるけれど,やはりちょっと悲しい。

 

今の部署は楽しいことも多いけど,仕事になるとちょっと引け腰になっている人があ多い。新しい部署はいい場所だといいな。

右手

感情の振れ幅が一定の値を超えると、決まって右手に神経痛のような痛みが走る。
ぴりぴりと手に伝わるそれは、脳裏に火花が突然走った時のような、くらくらした感覚に少し似ている。

頻繁に怒ったり泣いたり笑ったりと、感情が忙しい方ではない自分でも、年に数回はそういう時が来る。
一緒にいて心臓の音が高鳴ったとき。
勇気を振り絞ったとき。
それが崩れてしまったとき。
嬉しいときも、悲しいときも、ひとしく僕の右手はぴりぴりと痛む。

でも、昔はもう少し痛むことが多かったかもしれない。
いまから思えば明らかに見当違いな事や、悩んでも無駄なことでもっと怒っていたし、悲しんでいた気がする。そのわりに、嬉しさのあまり感情が振り切ってしまう、という割合は少なかったように思う。

その頃から時間が経って、少しは「どうしたって無駄なこと」が何か見分けられるようになった。
ああそうか、そういうこともあるんだよな、と思えるようになると、大抵の「悲しいこと」や「切ないこと」は「どうにもならないこと」にカテゴライズされるようになって、感情のボリュームを絞っていくようになっていく。
そんなことができるようになることを、「大人になる」と呼ぶのかもしれない。

だから昔と今を比べると、「悲しいこと」や「切ないこと」が少なくなった分、相対的に「嬉しいこと」が起きて右手が痛む割合は大きくなってきたように感じる。

それでも、悲しいときはくるわけで。


右手

右手



でも、悲しさで右手がぴりぴりと痛むと、まだ自分の感情はちゃんと生き残っているんだなあ、と少し安心もする。

今度痛くなるときは、どうかそれが嬉しいことでありますように。

愛想笑いをやめるには

ふとなにもない休日になってしまったので,一日ゴロゴロして過ごしました。

アマゾンビデオでたまたま見つけていた百万円と苦虫女を観て夜長をやり過ごしました。 

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なにか自分を脅かす存在に文句を言わせないためには自分が強くなるしかない,と,わりと昔から思って過ごしてきました。それを体現できるほどの強さが自分にはない,ということが,同時にコンプレックスになっていました。

それを克服するために,体重を20kg増やして筋肉をつけ,それなりに身なりも気をつけて,外見的にはひとまず自信の持てる姿に自分を変えることができました。だから,わりと色々なところでそれが役に立ってはいます。

ただ,中身の強さって外見とは全く別の問題なわけです。そして,中身の強さは,外見にも,行動にも,透けて現れる。どれだけ外見が良くてもダメ。

 

中身の強さは,「立ち向かえること」というところに凝縮されていると思います。問題から目をそらさない,逃げない。それは仕事に対してかも知れないし,恋愛に対してかも知れない。友達に対してかもしれない。ただ,人が相手の場合,「立ち向かえること」というのは,「正直に告げられること」ということとほぼ一致するのではないかと思います。

 

好きだ。離れたくない。大事にしたい。

嫌いだ。ここはダメだと思う。これはあなたのためにならない。

プラスでもマイナスでも,正直にものをいうことは,エネルギーを使う行為です。

それを必要な人に,必要なときに言える人は,本当に強い人だと思います。

 

自分も幾分ましになったはずですが,まだまだのようです。

忘れること,覚えていること

ドンキに行こうと自転車を出しに行ったら,自転車がありませんでした。

手元にちゃんと自転車のカギはあるのに,自転車がいつもの場所にありません。

どこかに置いてきた記憶はない。のに,なんでだろう。どうしても思い出せない。

結局,歩いて買い物に行きました。どこに行ったんだろう,マイ自転車。

 

時々,こんなふうにどうしても思い出せないことにぶつかることがあります。

覚えてたはずなのに,頭の奥底から引っ張り出せない記憶。

とてももどかしい気分になりながら,ベッドでごろごろもだえたりします。

 

でもその一方で,絶対に忘れないであろうものもあります。

たとえば,これ。

 


ゼロ動/「HANDMADE HOMETOWN」 - YouTube

 

親の作った手料理の味は,それが美味しいか否かは別として,ずっと覚えているものだと思います。

ちょっと甘目で,水分の少ない卵焼き。衣の薄い唐揚げ。ちょっと味の濃い筑前煮。

他の人の手料理と比べても,きっと判別できないなんてことはないと思います。

何しろ,20年近くずっと食べてきた味だから。

 

記憶も,それ単体で頭が覚えているなんてことはないと思うのです。

あることを体験したときに見たものや聞いたこと,匂いや味,はたまたその時の気分などを総合して,ひとつの場面としてまるごと頭の中に残っているのが,「記憶」というものなのだと思います。

だから逆に何かを覚えたい時は,その時五感で感じたことをまるごとシーンとして強く認識しておくと,覚えやすいのではないかと思います。

 

…ここまで書いて,結局自転車はおとといラーメン屋に寄ったときに路駐していたことをやっと思い出しました。ラーメンがうまくて,自転車で寄ったことを忘れてしまったようです。

きっと業者に回収されてしまってるだろうなあ…。

不安になる前に

自分に自信がないせいか,他人と一緒にいるときに「今目の前にいる相手は,自分といて楽しいと思っているのだろうか?」と不安になる時がある(割と少なくない頻度で)。そうしてそわそわしてしまったり,口数が少なくなったり,逆にフォローしようとして無理に会話をつなごうとしてしまう時があったりする。

この現象は相手が自分にとって嫌われたくない人だったり,大切に思っている人だったりするときに起きる(どうでもいい人は終始相手にどう思われていようが割とどうでもいいし,仕事上の付き合いの人はわりとわかりやすく線引きができるのでなんとかなる)。

要は自分が嫌われていないか,不安なのである。ラインで返事が来なかったりすると割とヘコむ派である。致命的ダメージじゃないけどちょっと心にくる。

その上,そんなふうに自分が不安に思っている気持ちが他人に伝染してしまうのが良くないから自分から楽しくしなきゃいけない,とか,不安に思うんだったら事前にもっと計画を練ってから行けばいいではないか,とか,色々考え事を増やして勝手に不安事を増やしている自分が一番の元凶なんじゃね?と最近思うようになった。面倒くさいことを考えて面倒を増やしているだけなんじゃないか,と。

 

もっと自分本位でいい気がするのだ。自分が楽しいと思えることをして,美味しいと思えるものを食べて,笑っていればそれでいいのである。

 

そして沢山動いて,楽しいことをするにはある程度の体力が必要なのだけれども,最近体力の回復力が落ちてきている気がする。年かな。

「心が叫びたがってるんだ。」観ました

今日は,公開されたばかりの「心が叫びたがってるんだ。」を観てきました。

最近映画でもアニメでも見るとすぐに涙がびっしゃびしゃに出てしまうんだけど何なのかな。病んでんのかも。

*ほんの少しネタバレあるかもなので,観てない方はご注意を。

 


「あの花」スタッフ最新作!「心が叫びたがってるんだ。」TVCM - YouTube

 

言葉って本当に便利なコミュニケーションツールで,本当にいろんなことを伝えることができます。ただそれはあくまで「不完全なツール」であると同時に,破壊力も持ち合わせているものです。使い方によっては,誰かを傷つけることになる。

 

言葉は単純なものです。同じ言葉を使って会話をしていても,相手が全く同じことを頭に思い浮かべているかは,正直わかりません。あくまで「同じ言葉を用いているから同じ概念を思い浮かべている」という仮定をしながら,私達は会話を進めています。

特に「心」とは何か,「愛」とは何か,といった抽象的概念になると,言葉で表しきるには到底遠い存在であるし,人によって解釈の仕方も千差万別です。ましてや,自分の気持ちを,その意図まで含めて正確に口頭で説明することなんてしきれない。

そしてこの映画の登場人物たちは,それぞれが感じていることを上手く言い表せなかったり,お互いに認識を違えたりして,修復不可能に見えるほどのダメージを,それぞれの心に負っています。

 

「誤った言葉」は,やがて人を縛る「呪い」になる。

その呪いは,誰もがかけてしまう可能性のあるものです。

でもその呪いを解くのもまた,言葉なのです。

 

直接相手に立ち向かって,自分の言葉で表現することができたなら,それに越したことはありません。でも,そんなに単純じゃないこともあります。

そういうとき,人間は「物語」を頼ります。それは小説であったり,絵であったり,歌であったりします。それに言葉では直接説明しきれないことを閉じ込め,託すことによって,何とか伝えようとします。

自分の言葉で表現することと,物語に託して伝えるのは,両輪の関係にあると思います。どちらかだけで成立させるのは,けっこう難しい。

自分は昔,特に学生の頃は,セクシャリティを外に出したり表現するのが怖くて,それがなくても人付き合い自体が怖くて小説を読むのに逃げていた時期がありました。否定されるのが怖いし,変な目で見られるのが嫌だし,嫌われたくないから。

でも,物語だけじゃ生きていけませんでした。結局は生身の人に行き着くのだなあ,と思いました。当たり前かもしれないんですが。

今でも嫌われたくないし,否定されたくはないけれど,それなりに深い付き合いができる人も増えて,どんどんと人付き合いが楽しくなってきています。嬉しいことです。

 

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映画館のある日本橋のコレドを鑑賞後にうろうろしてみると,お出汁をコップに入れて売っている店を見つけてびっくりしました。しかも混んでる。

とりあえず買って飲んでみたはいいものの,だしの旨味がそこまでよく判別できない。ちょっと,お出汁の良し悪しを素で判断するには時期が早いようです。