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いつかヒトになるためのレッスン

20代ゲイです。人生いったりきたり。再開した小説はこちら→http://ayamina.hatenablog.jp

決断とは

土曜日,会社同期の結婚式の二次会に行ってきた。さすがに27歳にもなると結婚式の回数もちょこちょこと増えてきて,みんなそういう時期に差し掛かってきたのかとしみじみしている。

そんな中で,大学時代から知っていて,同じ会社に入った同期が結婚することになりそう,と帰り道に寄ったバーで話してくれた。

仕事が好きで,ほぼ女の人の影もなく(だからといってホモというわけではない),きっとしばらく結婚しないんだろうなあ,と思っていたので,ちょっとびっくりしてしまった。

付き合って一年もしないうちにプロポーズしたと聞いて,人生を左右する決断ってそんな短期間でできてしまうもんだなあ,となんだか感心したというか,拍子抜けしたというか,よくわからない気持ちになった。

 

実際は自分だって人生に大きく影響する選択なんて結構しているはずで,そんなに特別扱いするようなもんでもないと思うのだけれど,周りのノンケには「結婚」とか「家族」とかわかりやすいターニングポイントがあるせいか,なんだかすげえなあ,と圧倒されてしまうときがあるのだ。

それと同時に,そういうわかりやすいゴールがあることが,ちょっとうらやましくもあったりする。

最近,そういう人生の選択について考えてしまうことが多くなってきて,ああ,自分もけっこうおっさんに近づいてきているんだろうか,なんて思ったりもする。

 

自分がどうしたらいいのか,どういう道を進んだらいいのか,なんでもできる人になればいいのか偏った人になればいいのか,行ったり来たりしているうちに周りの人はどんどん決断をしていって,自分だけが置いてけぼりにされてしまうような気持ちになってしまったりもする。

それだけ,自分が内心焦っていて,悩み続けるくらい自分のことをまじめに考えるようになってきたのかも,と考えると,ちょっと進歩してきているような気もする。

いっぱい悩んで,考えて,あとは行動していくだけ。あんまり頭抱えすぎていてもしょうがないし。

さ,月曜だ。

もしも,の話

何か上手くいかなかったことを思い出すたび,「もしも〜だったら」ということを反射的に考えてしまう癖が,もう取れないくらい頭に染み付いてしまった。

想像力が豊かなほど,もしもの世界は色鮮やかになる。現実で実際に想像したことが実現されなくても,想像しただけで満足してしまうくらいに。

 

もしもの世界は自由だから,どんな都合の良いことでも,どんなに道理がねじまがっていても無限大に寛容だ。他人の身体も心も自分の意図通りに動かせるし,どんなに可能性が低いことでも確実に成功させることができる。

そしてその想像から得られる快感は,現実での歩みを鈍くしてしまう。自分の頭の中に引きこもっていれば,傷つかずに済むし,インスタントに仮初の達成感を得ることができるから。

でもそれでは前に進めないから,その「もしも」を整えてどこかに封じ込めて,自分と離れたところに置いておく必要があった。その作業が,自分にとっては写真を撮ったり,小説を書いたりすることだった。自分の心の中にあるものを外に出してしまうことで,自分はその「もしも」が存在しないもので,心の拠り所にしてはいけないもの,ということを理解しようとしていた。奇跡のような妄想を消化して,自分に対して現実に目を向けさせるようにしていたのだ。

 

最近また小説を書き始めて,写真もまた意識して撮るようになって,自分ってこんなに都合のいいことや,ごちゃごちゃした妄想を頭の中いっぱいに考えていたんだなあ,と改めて思うようになった。

努力をそんなにしなくても成功できると思っていたり,自分の意図を汲み取って周りが動いてくれると思っていたり,自分から何もしなくても何とか事がうまく運ぶと思っていたり。

そんなことは,ないんだよなあ。残念ながら。

 

「もしも」は適度に頭からお掃除して,自分は現実を生きよう。

 

外向きの言葉,内向きの言葉

日記

こうやって文章を書こうとする時,自分は基本的に「誰かになんとなく(あるいは明確に)わかってほしいことがある」と思って書き始めるときと,「なんでこういうふうになるんだろう/思うんだろう/考えてしまうんだろう」と思って書き始めるときと二種類ある。

便宜的に「外向きの言葉」「内向きの言葉」の二種類がある。前者はブログの文章だったり,Twitterだったり,あるいは他の人と話す時の言葉になったりして,後者は自分向けの日記になる。どっちのほうが好き,というわけでもないのだけれど,きっと自分は外にむけて話したいことが多いんだろうな,と思う。

もっと人と仲良くしたい,好きなことを話したい,とは思うのだけれど,自分の中で「誰と」という部分の優先順位がおかしかったり,ノイズが沢山入ったりして,ものすごく素敵な時間を過ごした,という機会が減ってきている気がするのだ。

知り合う人が飛躍的に増えたからかもしれない。いろんな事やものや人に目移りしてしまっているからかもしれない。きっと,自分が好きなものに取り組む時間が少なくなっているのもあると思う。

学生の頃は生活の殆どが本と写真と小説で埋まっていて,とてもシンプルだった。社会人になって,プライベートでも色んな活動をするようになって,楽しいことはとても増えたけれど,それに流されっぱなしになっている感じがずっとしている。それがとても自分でストレスになっている。

自分の話す言葉から中身がなくなっていく前に,あたらしく知識を組み込んで,積み上げていく必要がある。じゃないと,いつまでも自分が楽しく思える事が増えないままだなあ,と思う。

 

今年はもうじゃんじゃん,吐き出し先としてブログを使っていこう,と思ったりして。きっと毎日何か考えてアウトプットしておかないと,頭が本格的にさびついてしまう。いや,もしかしたら既にほぼ錆びついて動いてないかもしれないけど。でも,少しずつ油をささねばならぬのです。

てか日に日に出勤できない職場の状況が悪くなってく。もういっそころしてくれー。来週完全に気が重い。

自分を責めること,改善すること(東京タラレバ娘ドラマを見て)

日記

年明け風邪で三連休を半分くらい潰したと思ったら,月曜日にまさかのインフルエンザを発症してしまって現在自宅待機中です。一週間まるまる休みになってしまった。

というか完全にアウトなタイミング(何個か抱えてた仕事がやっと今週大詰めに入って,ここを乗り越えれば何とか落ち着くと思っていたタイミング)で穴をあけてしまったので,完全に職場があわあわしているのを電話とメール越しに聞きながら自分は仕事できずに最低限の連絡だけしなければならないという,完全に生殺し状況に入っていたりする。穴があったら入りたい。穴自分で掘るから入らせて欲しい。

 

昔から同一タイミングに3つか4つくらい悪いことが重なると,どうしたらいいかわからないくらいに落ち込む。その場でわたわたして何もできなくなってしまう。一回深呼吸して,とりあえず処理できそうなことから落ち着いて取り掛かっていくのがいいんだろうけど,身の回りに見えるものに全部「悪い出来事フラグ」が立っているようなフィルタが目にかかってしまって,全部悪く見えてしまう。

こうなってしまうと,もう何をしても怖い。道の譲り合いになって左右におろおろしていても「この人めっちゃいらついてるんだろうな」ってとてもビクビクするし,投げたメールの返信が返ってこないと「あー絶対うざがってるきっと」となってしゅんとするし,自分のしていることがどういう影響を及ぼしているかが気になって仕方なくなる。そして全部自分のせいにしたがる。

 

そのくせそこから何で悪いことが重なったか分析したり,学んで行動を改善するところまで持っていけていないあたりがクズな感じである。炎上したものがある程度落ち着いてきたら「まあ落ち着いてきたし」と思ってまた改善せず放置してしまうのだ。

怖いから何もしたくない,ちょっと安心だと思ったらまた目先の楽しいことに心奪われてまた事態が悪化する火種を生む,とか,そんな感じの繰り返し。

 

人一倍失敗したくない気持ちが強いはずなのに,なぜ失敗しないように手を打つことができないのか,というテーマには,結局就職したあたりからずっと向き合っているはずにも関わらず,まだ克服できていない。

根がものぐさなのはもう治らないんだろうか…。

治そうと思って動き続けないと治らないんだろうな。

 


Perfume 「TOKYO GIRL」 新ドラマ『東京タラレバ娘』 主題歌

 

きょうはドラマ「東京タラレバ娘」の一話目の放送日で,あっそういえばという感じでテレビをぼうっとつけてみていたのだけれど,案の定心臓が痛くなった。完全に自分の心をえぐりに来ている。

実写版のキャストが合ってないとか演技がどうとかは今回の自分にとってはあんまり問題じゃなくて,漫画を読んだ時に感じた殺傷力が映像化されることでぐっと威力を増して自分を刺している気がして,非常に辛かった。

こういうのにハマってしまう自分は,物語のなかでひどい目にあっているキャラと自分を重ね合わせて,「こういう惨めな目にまさに遭っているのでどうか今の自分は見逃してやってください,十分惨めなのは分かっていますので」と勝手に胸の傷を見せた気になって,勝手に許しを乞うているだけなような気がする。

 

胸の傷を見せて許しを乞うても問題は解決されない。

問題は,原因を分析して処理して,再発防止策をとらないと解決されない。

 

「傷ついた」と言ってわめいてる場合ではないのだ。自分で自分を育てないと,まだまだ子どものままの自分になってしまう。あまりインスタントな快感に頼りすぎないようにしよう。

 

ドラマは面白かったんで見ます。あーちゃんがそつなく声優こなしてて結構びっくりした。

悪口を言うこと

日記

「悪口」の話をします。

 

 

 ふと思いついてこんなふうなツイートをしたのですが,考えの整理をつけるためにいろいろ書いてみることにします。

こういうことはブログに書くと他の人に思考を邪魔されないからいいですね。

 

毒舌キャラ,という人種がいます。簡単に言うと細木数子みたいな人のことです。相手の何かしらについて貶めるような指摘をして,それをキャラとして正当化している人のことを指します。

自分はあんまりそういうのに対して普段からマジで怒ることはないので(というかだいたいぼけーっとしているので),そういう人に何か言われても笑ってごまかしています。たぶんいちいちキレたりする人はそんないないんじゃないかと思いますが。

 

細木数子の例を引っ張り続けてアレなんですが,「あんた死ぬわよ」とか言われて何も感じない人はごく少数なんじゃないかと思うんです。大体の人は多少なりとも傷ついたり,ショックを受けたりします。占いならまだしも,「毒舌」という名のもとに人を貶めるのは単なる「悪口」です。

後からフォローを入れようが,受けたショックは特に軽減されることはありません。感情はプラスとマイナスで差し引きできるようにはできていないからです。−10の言葉の後に+10の言葉でフォローしてもプラマイゼロになることはなくて,そこには−10と+10の評価が残ります。個人的に言うと−10の言葉を受けたあとに+10の言葉でフォローされても,半減するなりしてあとのほうは+5くらいの評価になったりします。結局マイナスですね。

 

でも,毒舌キャラの人は「事実を言っているだけ」とか「しょうがない,あんたが悪い」という態度で継続して悪口を言い続けます。そうすると,どっかのタイミングで「あれ,おれってそもそもなんでこの人と付き合ってたんだっけ,マイナスしかなくない?」と思ってすっと距離をとるときが出てくるのです。

もうその段階まで来たら,その毒舌キャラの人に多少のプラス要素が混ざっていたとしても無駄です。付き合い続けると相対的に受けるマイナスの量が多くなって,そしてそれが今後も永久に継続するであろう,ということが見えてしまった時点でアウト。多少のことではひっくり返せなくなります。

 

で,そういう毒舌キャラの人に限って「それならそうと言ってくれればいいのに」とか言い出すんです。

そう言われると,いや,おそらくそう言ってもあなたはそうと理解しないだろうし(理解しても行動を変えないだろうし),なんならそういうシグナルとか出してるときもあるし,わざわざそういうことを本人に言ってきちんと受け止められないというコストを払ってまであなたに分からせようとする気すらもうないんです,という気分になったりします。

 

そういう人と出会ってしまうと「この人30年後ちゃんと生きてるのかなー」とか考えながらぼーっと対応しています。今はまだ20代とか30代だからそれなりに仲間と呼べる人もいるだろうけど,50とか60とかになって,しわしわのおじいちゃんになったりして,それでも悪口を沢山吐く人の周りには,きっと人は寄ってこないと思うのです。

だったら多少抜けてても見栄っ張りでもプラスのことを考えて言い続ける人の方が愛されるし,周りの人を幸せにすると思うのです。念のためですが,この場合の「愛される」とは一生をともにする伴侶ができる,ということではありません。人々から敬愛される,という意味です。

恋愛に生きなくても人生を充実して過ごすことはできますが,仲間がゼロの人生は寂しいものです。言葉ひとつの使い方で,人生は左右されると思います。気をつけないとですね。

 

※ここまで書いてから念のため追記しておきますが,別に「貶める言葉を一切言ってはいけない」ということを言いたいのではありません。「単純に人を貶める言葉を言いっぱなしにすることは単に言った人の気分がスカッとするだけで何も生み出さないし,みんな態度に出さないけど実際嫌われてるからマジでよしたほうがいいよ」ということです。

 

そして自分は「悪口」に対して今日書いたようなことを思いましたが,人によってはそのきっかけになることが「約束をすっぽかすこと」だったり「わがままを言うこと」だったり,「自分の思うとおりに行動してくれないこと」だったりします。

人によって気にしないものと耐えられないことの評価軸が異なるので非常にめんどくさいですね,こういうの。

ということは,毒舌キャラのひともどこかでは生きていける領域があるのかもしれないですね。ふうむ,世界ってよくできている。

 

 

認識すること

息がうまくできない時がある,という話をします。

 

道を歩いていて,ふと横道にある何かに気をとられて振り向いたりした時に,「あ,なんか今自分,息してるな」とふと感じる時があって,そこから数秒間息をするリズムが乱れるときがあります。

「あっ,あれ,自分ってどうやって息してたんだっけ」って感じに意識が自分のしている息の方に向いてしまって,なんだか慌ててしまうのです。

生きてれば誰だって息はするし,心臓は動くし,血は身体を巡っています。そんなこと何から何まで常々意識してしまうと心がパンクしてしまうのですが,時々「あ,そういえば」とそのことを認識することって,結構大事だと思うのです。

 

朝起きる。ご飯を食べる。仕事をする。帰って風呂に入って,飯を食べて寝る。時折他の人と騒いで,夜更かしなんかしたりして,旅行になんか行ってしまったりして。日々の生活にバリエーションはあるけれど,言葉にするとこのように類型化できてしまう。

一応毎日,少しは違うことが起こっているはずなのに。

 

同じようで,でも少しだけ違うことを認識できるかどうか。

それで,日々を新しく生きられるか否かが規定されるように思うのです。

 

今日の息は浅い。今日の息は速い。

明日はどんなふうに息をしているのか,ふと考えるだけでも,明日は新しくなるのかもしれません。

孤独と不安と,上手く付き合うこと

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

たまたま本屋でレジ前に積まれていたこの本が目に留まったので,沖縄にひとりで旅行をしている時にもくもくと読んでいた。

 

「不安」には,前向きな不安と後ろ向きな不安があるらしい。

後ろ向きな不安は思考を止め,自分を振り回す不安。前向きな不安は自分にエネルギーを与える不安らしい。なんだかわかるような気もする。

 

この中でなるほどなあ,と思ったのは,「悩む」ことと「考える」ことは違う,ということだった。悩むというのは結論が出ずただうだうだしているだけで,考えるというのはなにかを解決するためにアイデアを出す,ということらしい。

自分はどちらかというと悩むことがほとんどだなあ…と思った。結局は悩む前に動けってことか。

 

もうひとつ違うと書いてあったのは,「他人」と「他者」は違う,ということ。

「他人」は自分に関係がない人,「他者」は自分に喜びと同時に不安や憎しみをくれる人,ということらしい。

そして,「他者」と上手く付き合っていける人が本当に孤独と不安と付き合える人だ,とも。

 

人生はいいことだけではなくて,必ず良くないこともある。それを認めた上で,その両方を受け入れ,上手く距離を取りながら付き合っていける事が大事だ。

プラスしかない人生なんて,きっとつまらないから。