たとえば朝起きたときに,夢でみたなにか気になるものを目覚めながら思い出したとする。それについてなにか調べておきたいと思ったとする。
でもベッドから出たときにそれの輪郭はとたんにおぼろげになり,朝ごはんの準備をしているときにはほとんど思い出せなくなり,朝ごはんを食べるときには完全に記憶の外に放り投げられてしまう。
なにかについて「これは調べて起きたい,覚えておかなければ」と思っても,それらは簡単に手の指の間をすり抜けて,こぼれ落ちてしまうのだ。
でも,そのこぼれ落ちたものがひょんなことから手元に戻ってくることもある。
今日ひょんなことからYUKIの話になって,いろいろそれぞれが好きな曲を話し合い,YOUTUBEでだらだらと見続けていた。そういえば高校生〜大学生にかけてよく聞いていたな,とか,JOYのPVをずっと見続けていたな,とか,芋づる式にいろいろな思い出が引っ張りだされてきた。
そのときに,「案外自分って色々覚えているんだなあ」という気持ちとともに,「知らない部分についても,知ったかぶりせずに素直に興味を持つ事ができるようになってきたんだなあ」ということも思うようになった。
今までの自分は「何かを知らないこと」に対して結構コンプレックスをもっていて,「それって何?」とは聞けずに知ったかぶりをすることがなかなか多かった。だから少しでも突っ込んだことを聞かれてしまうとアウトで,恥をかくことも少なくなかった。
でも,最近になってそんな意地を張っていてもしょうがない,とやっと思えるようになってきた気がする。知らないものは知らないのだ。
知らないものは知らない,のだけれど,「知らないこと」を面白がって「それってどんなもの?」と聞ける,それで自分もそれを知ることができる。そうすると,大分素直に人と楽しいことを共有することができる。
そしてそれは,自分のことを人に伝えるときにも,同じことが言える。
素直に自分のことを喋ることができないと,相手から見た自分と自分の知っている自分との間にどんどんズレが生じてくる。相手は自分がつくりだした,操作された「自分」の像を見ているものだから,相手がちょっと的から外れたことを言ったりすると「自分のことをよく知らないくせに」とか思ってしまったりする。そりゃそうだ,自分で自分の事を話していないんだから。
わざわざ作った自分像を持ちださなくても良いのだ。綺麗に整えなくてもいいのだ。それでも,側にいられる人はいる。
自分が知らないことはひとつずつ拾っていって,
相手が知らない自分もすこしずつ明かしていって。
そうすることで,もう少しずつ,生きやすくしていこう。