ぴりぴりと手に伝わるそれは、脳裏に火花が突然走った時のような、くらくらした感覚に少し似ている。
頻繁に怒ったり泣いたり笑ったりと、感情が忙しい方ではない自分でも、年に数回はそういう時が来る。
一緒にいて心臓の音が高鳴ったとき。
勇気を振り絞ったとき。
それが崩れてしまったとき。
嬉しいときも、悲しいときも、ひとしく僕の右手はぴりぴりと痛む。
でも、昔はもう少し痛むことが多かったかもしれない。
いまから思えば明らかに見当違いな事や、悩んでも無駄なことでもっと怒っていたし、悲しんでいた気がする。そのわりに、嬉しさのあまり感情が振り切ってしまう、という割合は少なかったように思う。
その頃から時間が経って、少しは「どうしたって無駄なこと」が何か見分けられるようになった。
ああそうか、そういうこともあるんだよな、と思えるようになると、大抵の「悲しいこと」や「切ないこと」は「どうにもならないこと」にカテゴライズされるようになって、感情のボリュームを絞っていくようになっていく。
そんなことができるようになることを、「大人になる」と呼ぶのかもしれない。
だから昔と今を比べると、「悲しいこと」や「切ないこと」が少なくなった分、相対的に「嬉しいこと」が起きて右手が痛む割合は大きくなってきたように感じる。
それでも、悲しいときはくるわけで。
でも、悲しさで右手がぴりぴりと痛むと、まだ自分の感情はちゃんと生き残っているんだなあ、と少し安心もする。
今度痛くなるときは、どうかそれが嬉しいことでありますように。