いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

正しいことを言うことに、どれだけ意味があるのか

諸々あって会社を休み始めて、そろそろ2ヶ月が経つ。

結局転職した会社を辞めることにした。コロナのご時世のなか、ありがたいことに次の仕事は見つかったので路頭に迷うおそれはなくなったけれど、ちょっと長めの人生のお休み期間をもらう結果となった。あとひと月休みはあるけれど、きっとまたたく間に過ぎていってしまうだろう。この2ヶ月も一瞬だったから。

色々学ぶことはあったので、転職した事自体に後悔はない。こういうときもある。

 

休みの間に、今まで見るに見られないままでいた映画やアニメ、読みためていた本や雑誌を黙々と消化し続けていた。普段は手を出すのに躊躇する連ドラまで見たりしている。「梨泰院クラス」、良かったです。その話はまた別でするとして。

 

ずっと見られずに気になっていたアニメシリーズのひとつに「Fate」シリーズがあって、今はそれを放映順にもくもくと見ていっている。もともとFGOからハマり始めたのだけれど、概念礼装に描かれているキャラのことが全然わからないうえにそれがおびただしい数あるので「なに…こんなたくさんキャラいるの……?」と思いながらもアニメは見られずにいた。

2クール×複数シリーズのアニメは平時の自分にはハードルがやや高かったのだが、いまは堂々と朝からアニメが見られる天国のような状況なので5〜6話ずつ分割しながら見続けている。

 

Fate/stay night」「Fate/stay night UNLIMITED BLADE WORKS(映画版)」「Fate/zero」まで視聴し終わった。スタジオディーン版のは作画がいろいろな意味でものすごかったのだが、ufotableがアニメーション制作を担当した「Fate/zero」はやっぱりすごかった。と同時にストーリーがわかりやすく重かった。

「過ぎたる夢」という共通点で繋がった衛宮切嗣とセイバー。彼/彼女の言うことは紛うことなき正論なのだけれど、このアニメはそれを語ることの無意味さ、そしてそれにすがらざるを得なかった人の懊悩を描くことがメインテーマの一つだったのだろう。

 

 

最終話直前の24話、切嗣と、切嗣を模した聖杯との間で以下のような問答がなされる。

片方の船に300人、もう一方の船に200人。

総勢500人の乗員乗客と、後は衛宮切嗣

仮に、この501人を人類最後の生き残りと設定しよう。

二隻の船底に同時に致命的な穴が開いた。

船を修復するスキルを持つのは衛宮切嗣だけだ。

さて、キミはどちらの船を直すだろうか。

 

常に「どれだけ多くの人を救えるか」で判断をしてきた切嗣は、300人の乗る船を救うことを決断する。だが、300人の乗る船に移動しようとすると、200人の船の乗客は自分たちの船を直すように、と切嗣を捉えて脅す。

それでも、200人を鏖殺してでも300人の乗った船を救う、というのが切嗣の判断となる。

だが、それと同じことがもう一度起こったら?

 

生き残った300人は傷ついた船を棄て、

新たに二隻の船に分乗して航海を続ける。

今度は片方の船に200人、もう一方の船に100人だ。

ところが、この二隻の船底にまたしても同時に穴が開いた。

キミは小さい方の船に乗る100人に拉致され、

先にこちらの船を直せと強要される。

さあ、どうする?

 

切嗣の判断基準に照らすと、今度は100人を鏖殺して200人の乗る船を救うことになる。だが、それだと救った人数が200人であるのに対し、切嗣が殺した人数が300人となり、結果的に切嗣の希望と逆の事象が発生してしまうことになる。これではあべこべだ。

 

セイバーが11話の問答で征服王イスカンダルから「王という偶像に縛られていただけの小娘に過ぎん」と一刀両断されていたのと同様に、切嗣もまた実現不可能な正義に縛られた脆い存在だった。それでも足掻く両者にドラマを感じてしまうのは、きっと心のどこかでそう願ったことがあるからだろうし、心のどこかにそれと同じ感情が根付いているからなのだと思う。

 

正義や正論は、言葉通り、もちろん正しい言葉だ。ただ、それは口にするたびに、「正しくないものはすべからく排除されるべきだ/救われてはならない」という呪いを吐き出す呪術装置でもある。SNSでインスタントな正論が量産されても世の中が全くマシにならないのは、つまりはそういうことだ。

心から正しくあろうとする人ですら正義や正論に救われないのなら、それ以外の人がそれを振り回しても傷が増えるだけである。この場合傷の度合いが深くなるのはその人自身でなく周囲の人になるから余程タチが悪い。本人にその自覚がないのも、同様にタチが悪い。

 

言葉以前の感覚でその虚しさに触れたことのない人は、ずっと表面的な正論や正義を撒き散らして表面的な快感を得て生きていくんだろう。

不可能なことだけれど、感情それ自体をそのまま共有できるようになったら、そういうこともなくなるんだろうか。共有すんのも嫌だけど。