突然ですが「なにがあっても絶対嫌な人」ってみなさんの中には存在しますか。
ぼくにとっては「歩きタバコをする人」がそれに当たります。
どんなに仕事ができるように見えても,どんなに人格者に見えても,歩きタバコをする人は一切合切無条件に消滅していただきたいと思うくらい嫌です。
どっか道端に止まってタバコ吸ってるのはまだ理解できるんです。家の中でタバコ吸えないのかなあ,大変だなー,って思うくらい。
でも歩きタバコする人ってダメなんです。歩いてる間も我慢できないくらいタバコが好きならタバコにまみれた汚水の沼に落ちてそのまま沈んでいって欲しい。というか沈めてやろうかと思う。もしくはタバコを持ってる腕を持って膝蹴りをかまして腕を関節とは逆に折りたい。
まあどれだけ歩きタバコする人が嫌いかについては置いておいて,こういう「他の要素がどうであれこれだけは絶対に◯◯」という気持ちを胸に持って生きていると,それに当てはまる対象と出会う度に無条件にそのことについて考え始めちゃうんですよ。
これがものすごく面倒くさい。というか疲れる。
ぼくが道行く中で歩きタバコする人に出会う度に腕をへし折っても,この短い人生の上でたかだか数人くらいにしか効果がないんですよ。そして絶対に日本から歩きタバコをする人はなくならない。それは絶対にそう。
だから,自分がコントロール不能な領域に対して絶対的な意見を持つのって,不毛だなあ,と。
(それを突き詰めて考え続けて,人の腕を折らなくても解決するような方法を編み出せる人って本当にすごいんだなあと思います。はやく歩きタバコの領域に対しても出てきて欲しい)
そう考えると日本で育まれた「無常」っていい概念だなあ,と。
すべてのものに絶対はない,と考えれば,だいたいのことには心を揺さぶられずに生きていける。あんまりひとつのことに拘泥しなくて済む。
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
- 作者: 平田オリザ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/10/18
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前も記事上でこの本を挙げたけれど,これに書かれていた「人はこれからもっとバラバラになって生きていく」という言葉が頭のなかでずっとくるくると動き続けています。
これから,人はもっとバラバラになりながら生きていく。絶対的な自分,絶対的な相手というものは存在しないし,「日本人」という概念すら,保てないくらいバラバラになってしまうかもしれない。
その中で,「心からわかりあう」なんて瞬間は,もしかしたらこの先ずっと訪れないかもしれない。
でも,それでも「わかりあえないこと」を前提として生きる,と考えると,たいぶ気持ちが楽なのだと思います。
「コミュニケーションとは,他人と同じ気持ちになるということではなく,他人とどこが違うかがもっと微細にわかるようになることだ」というのは上記の本の帯に書いてあるコメントですが,確かにそのとおりだなあ,と。
歩きタバコする人のことにいちいち頭の労力使うくらいなら,もっとなんか,おいしいごはんのこととか考えとこう。ラーメン食べたい。