いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

愛されなかった人が愛すことは可能か

 ふたつ前の記事で宮本七生さんの写真展の感想を書いたのだけれど,最近愛すること,愛されることについて考えることが多くなった気がする。

今日は,そのことについて思うところを書いてみようと思う。

 

(ちなみにその感想記事はこちら↓)

seesawseen.hatenablog.com

 

 

人を愛せる能力を自然と備えるかどうかは,「幼少期に愛されたか」に起因する

人って本当におおまかに2つにわけると,「素直に人を信じ,愛せる人」と「なかなか人を信じ,愛せない人」になると思う。

前者は誰とでも分け隔てなくコミュニケーションをとることができ,周囲に優しさを振りまくことができ,特定の誰かを自然と愛することができる。

一方で後者は何らかの要因でコミュニケーションをとるのが苦手な対象が多く,交友関係は限定的か殆ど無く,恋愛はうまくいかず,続かないか,トラブルばかり起こしている。

 

かなり乱暴な分け方をしたが,人間がこのどちらのタイプに属するかは,「幼少期に自分自身が十分に愛されたか」によると思う。

kamipro.com

 

数年前に「黒子のバスケ」脅迫事件という,もう本当にとばっちりとしか言えないような事件があったのだが,この犯人である渡邉被告の最終意見陳述書のなかで,被告自身がなぜ自分が犯罪に走ったのか,という原因について解説している。

少し長いが,記事内から実際の文章を引用する。

 

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか? 端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。


乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。


またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。
この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。


このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。


幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。


「生ける屍」には思春期がありません。感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない「生ける屍」は、それらの問い直し作業をやりようがないのです。

 

感情と規範を十分に与えられずに育った人は,自分の心の中心に感情と規範がリンクしていることにより感じる「安心」がないために,自身の感情を人と,社会とリンクさせることができない。そのことにより人間関係や社会の中から疎外され,更に生きづらさを増していく,というのが,上記の文章の要約である。

このような人は,そもそも人間関係を構築する,という点において大きなハンデというか,障壁を持った状態でのスタートとなる。人を愛すとかいう次元ではないのだ。

 

 

ここまで絶望的な人生をたどっている人はそう多くはないのかもしれないが,幼少期に構築される人間関係,というのは本当に人生にわたって影響するものだ。親からふと発された一言によって,思わぬショックを受けることも少なくない。

自分はゲイだが,9歳位の時に密かにプロレスラーとかの写真を新聞から切り抜いて学習机に隠していたのを親に見つかり,「同性愛は今なら治せるから」と言われたことを今でも忘れていない。

その頃はまだ性的な衝動もなかった頃だし,自分でもなんでその写真が好きなのかの理由が分からなかった頃だった。その時期に「お前がしていることは病気だ」という内容に等しい発言をされたことは,そう簡単に忘れられることではない。

 

 

ショックは消えないが,習慣と訓練で愛することは可能である(…はず)

多かれ少なかれ,なにかのショックが元でその後の人間関係の形成に課題を感じている人は少なくないと思う。

過去に受けたショックというものは,記憶から消し去ることは不可能だ。というか,忘れられたとしても結局良好なコミュニケーションを取れた経験がなければ,結局それを再現して人を愛することはできない。

なんでもそうだが,全くのゼロからなにかを生み出すことなど不可能である。なにもないところから愛なんて生まれてはこない。だとすれば,十分な愛が与えられなかった人は,愛を「学ぶ」必要があるのだ。そして,それを実際の人生で再現しようとし続けることでしか,それを克服することはできない。

学ぶ先は小説やドラマでもいいが,それだと無駄に可能性の低い,ロマンチックすぎる方法ばかり学んでしまって余計こじれるかもしれない。

だから,現実に生きている人から学んだほうがよい。

 

その学ぶプロセスを,恋愛ネタに強い女性ライターのトイアンナさんは以下のようにまとめている。

①これまでの他人と接してきたパターンを把握する
②他人と対等なパートナーシップを築けている人の行動パターンを知る
③自尊心を取り戻していきながら、徐々に②の行動を取るように努める

toianna.hatenablog.com

 

ゲイの暮らしって,どこで見られるんだろうなあ。

ISMagazineでも買ってみるか。