いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

「世界から猫が消えたなら」―思い出を紐付け続けること

生きる,ということは,問いを立て続け,それに答えを紐付け続けていくことだと思う。
なぜわたしは生きるのか。なんのために生きるのか。何がないと生きられないのか。
人はそれぞれ,自分に対して常に問いを課しながら,答えを探し求めて彷徨う。
そのなかで,「もし明日死ぬとしたら」という問いを立て続けたのが,この物語だ。
 
「明日死ぬはずの命が,あるものを消すことで伸びるとするなら,それを消すか」という問いは,「何が自分を生きながらえさせているか」という問いとほぼ同じだ。この映画では例をいくつか示すことで,その問いに答えている。
電話,映画,時計,そして猫。映画ではモノがなくなるのと同時に,それに付随する記憶が失われる(原作小説では,記憶消失までは設定として盛り込まれていない。現に電話が消えた後も,「僕」は「彼女」と会って話をしている)。
電話が消えた時,「僕」は「彼女」との思い出が自分にとって大切なものだったと気づく。
映画が消えた時,「僕」はツタヤとの思い出が自分にとって大切なものだったと気づくと共に,「彼女」とも映画で繋がっていたことに気づく。
時計が消えた時は,「僕」の家族、特に父親との関係を考える上でそれが重要な鍵になっていたことに気づく。
そして猫が消えるとなった時は,「僕」にとって生きていく上で、忘れてはいけない存在として家族がいたことに気づくーー。
 
この物語においてフォーカスされているのはモノに紐付いている人との思い出だ。
だが,消えてゆくモノはそれらの思い出を引き出す触媒として,重要な役割を果たしている。
 
よく聴いていたCDとか,告白した場所とか,使っていた柔軟剤の匂いとか。
なにかきっかけとしてのモノが目の前に現れた時,ぼくらはそれにつながった何かを思い出す。
ひとつのモノにいくつか思い出がつながっていることもあれば,たくさんつながっていることもあるし,ひとつだけだけどとても強い思い出がつながっていることもある。
そうやって絡まった思い出の糸が太いほど,強いほど,それが自分をより強く生かす理由になる。
 
 
 
 
あーなんかおもいっきり文が硬くなってしまった。息苦しい。
要するに「思い出が人を生かす原動力になるのだけれど,意外と何もなしにそれを思い出すのってキツくって,つい忘れちゃう。でも思い出せなくても思い出自体がなくなってしまったわけではまったくなくって,それに紐付いているモノを見れば確かにそれを思い出すことはできる。そういった,沢山の隠れた思い出が自分を生かしている」というテーマの映画でした。
 
面白いと思ったのが,モノに紐付いている思い出が辛い思い出であっても,それも自分を支えるもののひとつになり得る,ということだった。
人の思い出って,楽しいことだけでできているわけじゃない。つらい時期だって,苦しんでいた時期だってきっとあったはずで,そしてそういうこともきちんと覚えているからこそ,今同じ悩みを抱えずに済んでいる,ということもある。
清濁併せ呑んだ思い出を沢山抱えて,たくさんたくさん残していったほうが,きっともっと,あとから後悔しない人生を送ることができるのだろう。