いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

「ちはやふる 下の句」ー 何のために、を考えること

ちはやふる下の句公開時に続編制作発表と、興行的にも大成功を収めている映画「ちはやふる」。

GW中に2回観に行きました。例に漏れずとてもよかった。
 
上の句の時は原作を何も読まず、アニメも見ずに行っていたのですが、今回は1回目を観終わった段階でアニメ1期を半分見ました。そこでやっと原作での物語順を差し替えたり引っこ抜いたりしていることに気がつきました。
かなり順番を変えていることがわかったのですが、2時間×2本の映画の中で盛り上がりと上下の接続を考えると、たしかに並び替えた方が収まりがいいなあ、と感心しておりました。
 
物語として「百人一首という文科系なのか体育会系なのかもはやわからないバトルスポーツを通して成長する高校生男女の群像劇」という主題を一切崩さずに再構成できていること、役者に合わせてキャラクターの細かな性格をチューニングしているところは見事だなー、と。
キャラクターのチューニングが顕著だったのは千早と新だと思っていて、千早は広瀬すずに合わせて底抜けにひたむきなカルタバカに、新は真剣佑に合わせてややマイルドな迷える少年にそれぞれ変わっているなあ、と思いました。
(真剣佑も調べたら俳優・千葉真一の息子だったり帰国子女で英語ペラペラだったり空手の腕が異常にうまかったりと、スターど真ん中みたいな逸材らしいのですが、それを一切感じさせないオーラの消し方も絶妙だなーと後から震えてました)
 
 
ここまでが全体的に思ったことなのですが、ここからは個人的に注目していたことを。
 
上の句は「仲間をつくることで、できないを乗り越えること」に主眼が置かれていた気がしました。机くんを中心としたエピソードが象徴していたと思います。
「できないんだったら、勝てないんだったら、かるたなんてやらなきゃよかった」と机くんが嘆いたこと。「才能がなくても、辛くてもやっている」と言葉を絞り出す太一。
太一が千早を想うシーンも出て気はするのですが、愛情よりも、圧倒的に友情がテーマです。
 
そして下の句では、「何のためにかるたをするのか」の葛藤と解決、がテーマであったと思います。
上の句であまり登場しなかった新、そして松岡茉優演じる若宮詩暢の登場が、このテーマの存在を強調します。
 
「じいちゃん=綿谷名人のため」にかるたをしていたが、名人を失ったことにより目的を見失う新。
「新と、太一とまた一緒にかるたをするため」にかるたをしてきたが、道を見失った新のために打倒クイーンを目指す千早。
「千早のため」にかるたをしているものの、「仲間のため」にもしていることのバランスを取ろうとして、千早にきつくあたってしまう太一。
 
元は「だれかのため」にかるたをしてきた三人が、それぞれが向く方角と強さのすれ違いにより、途中で瓦解しかけてしまう。
ひとりになってはいけない、という気持ちとは裏腹にそれぞれがひとりになろうとしてしまう。
 
ある程度何かをし続けていったときに、「あれ、自分って何のためにこれをしていたんだっけ」と考えてしまったがために全部がうまくいかなくなってしまう、という状態が、(今まさに自分がそうなっているだけに)すごく心にきました。
ちはやふるの中でそれを救ったのは、千早・太一がそれまで努力した結果としてついてきてくれた、仲間でした。
その経験を通して、千早と太一は「誰かひとりのためのかるた」という目的の他に、「仲間のためのかるた」という目的を得ます。
 
それとは対照的に、純粋に「自分のため」としてかるたをとっていた詩暢は、千早戦での千早の姿に驚きます。
この時の千早は、もはやかるたをとるいくつかの目的を飛び越えて、「かるたは楽しい」という心の元にかるたを取っていたのではないか、と思います。おそらく本人もそのときに「かるたは楽しい、かるたは楽しい」と思ってからかるたをしていたわけではない。やっているうちに「楽しい」という気持ちが、本人も言語化できない状態から湧き上がったのだと思います。
 
その千早の姿を見て涙する新に、原田先生が「かるたをする理由は、一つじゃなくてもいいだろう」と声をかけます。この言葉が、下の句の映画でのテーマに対する答えになっているのだと思います。
 
 
今まで自分が歩いて来た道が、これからの自分を照らしてくれる導となること。
何かをするために、明確な理由をひとつだけに絞る理由はないこと。
やっている中で、新たに理由を見つけられることもあること。
 
迷って立ち止まる自分に、力をくれる映画でした。
続編も楽しみ…!