読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いつかヒトになるためのレッスン

20代ゲイです。人生いったりきたり。再開した小説はこちら→http://ayamina.hatenablog.jp

思い出を相対評価しないようにすること

今日は大学時代からの友達と,花見に行ってきた。

といっても,ランチ食べたあと最初に行った目黒川はほとんど桜が咲いていなくて,結局水道橋に移動してちょこっと咲いている桜を見て,あとは飲んで話していた。

桜見るより話すほうがしたかったし,とても楽しく過ごすことができた。

 

あー楽しかった!と帰ってInstagramを開いてみると,他の人も結構花見をしている様子が見られた。桜が結構咲いてる公園で持ち寄りの食べ物を開いている人もいれば,なんかよくわからないけどテーブルにシャンパン置いてあるセレブな花見もあったりとか。

 

今は大分考えを変えていく事ができてきているけれど,他人に起きた出来事と自分に起きた出来事を比べて「あっちのほうがよかった」とか思うのって,とても不毛で無意味だし,何より精神衛生に悪い。「好きな人が恋敵とふたりきりで遊んでてこれはヤってるの確定でしょ」といったような場合であればまだわかるが,適当に見た,そんな親しい人でもない,ただアカウントをフォローしているだけの人の生活と比べる必要性は全くない。

いや,大体の人はこんなことわかって生きているのだと思うのだが,自分の場合は本当にこの切り分けができていなかったのだ。そして今もたまにできない時がある。

住む世界が異なっている(レベルが違うという意味だけではなく,単に交わる可能性がないであろう)人の出来事を見ることができるようになってしまったがために,いらぬ感情を持つことになってしまった。いや,そもそもそういうものがなくても,自分は周りを見て羨んでばかりの人生だったような気がする。

運動部の人間に憧れながら運動部には入らなかったし,人気者に片思いをしながら話しかけられずに終わったこともあった。コミュニケーションがうまいひとに憧れながら,自分では交わろうとせず,また話の種を見つけるようなこともしなかった。

 

他人と比べてしまう場合,自分はきっとその観点に関してコンプレックスを持っていると思うのだ。だから比較してしまう。現に興味の全くないことに関しては,どれだけ相手が貴重な体験をしていようと気にならないし,自分だけが理解できていれば良いようなことを体験した時は他人と比べるまでもなくその思い出が大事だと思える。

でも,自分が体験した思い出に相対比較で価値をつけることはしなくてよい。自分がどう感じたか,で決めればよい。

 

今日は,とても良い日だった。