いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

ブログはもう「日記のための場」ではなくなってしまったのかもしれない

書いては休み,書いては休みと,ちょこちょこブログを活用してきたのだけれど,最近すごく書きづらくなってきたような気がしている。

元々の文才があんましない,というのはまあ横に置いておいて,ブログを書くためのハードルって,昔と比べてすごく上がってしまったような気がしているのだ。

10年くらい前,まだ「ブログ」というものをどう扱ったらいいかよくわからなかった頃は,「今日はこんなことがあった」とか,「こんなことがあって楽しかった/悲しかった」といった,なんでもない日記をガラケーでぽちぽち打っていたような記憶がある。学校の友だちに言うまでもないことだけれど,なんとなく残しておきたいし,誰かに効いてもらいたい言葉を宙に投げておくための場所だったと思う。

 

でも,そういう「誰かに聞いてほしい言葉」を投げる場所は,Twitterとか,Instagramとか,そういう場所に移行していった。ブログは「まとまった文章を書き溜める場」として,なんか大喜利っぽい文章だったり,趣味のレポートだったり,「読んで何らかの有用な情報とか楽しさを得られる場所」に寄っていっているように思う。

 

ので,こんな感じに特にオチも何もない文章をだらだら書いていると,「これアップしていいんだろうか」って思う文章ばっかりになってしまった。

まあアップするんだけれども。何かしら書き続けて晒してないと,上手く書けるようにならないし。

 

それぞれの場所で,それぞれに合うように,自分の書きたいことを書くまでです。

有限であることを知らないと,何者にもなれない

一週間ちょっとさまよっていた旅行から帰ってきて,今日は夏休み最後の日をだらだら過ごしてました。

 

友達と3泊5日でバリにに行って,日本に帰ってきたその日にトランクを宅急便に預けて3泊4日の台湾一人旅。2カ国巡るのは今回が人生ではじめてでした。

途中から体力がもたなくなって思いっきり寝坊したりしましたが,概ね楽しかったです。バリは3年前に行ったときのコースをなぞる形で周りましたが,一緒に行く人が違うと違う楽しみがあるんだなーとつくづく思いました。まるで違う旅程を辿っているみたいだった。

台湾ももう数えると6回目くらいになりましたが(大学4年の時から年一回ペースで行ってる),台湾はさすがにもうひとりで行くの辛くなってきました。だいたいどこも行ってしまった。

 

旅行に行くと,じぶんがふだん住んでる場所と全然違う光景をたくさん見られたり,たくさんのことがうまくいかない(だいたいは言語が通じない,意図したとおりにものごとがうまくいかない,というところ),ということを通して,世界ってすごく広いんだなあ,ということに気づきます。

世界の他の場所にはいろんな人がいて,その全員が自分と違うことをして生きている。広いなあ,すごいなあ,と毎回びっくりして帰ってきます。

そんで,ぼけっとした生活を送っている場合じゃない,自分も頑張らないと,となかば焦燥感に駆られながら帰ってきて,しばらくは仕事に没頭する,という感じになります。

 

旅行に行くと,あまりに違うものをたくさん見るので,自分は今見ている全然違う人達のように,何にだってなれる,無限の可能性がある,という気分になったりしていました。

でも同時に,「無限だ」って思った瞬間に,無限についての想像がつかなさすぎて何もできなくなるんですよね。何をすればいいか途端にわからなくなってしまう。

理論的には無限なのかもしれないけど,無限って考えるのはもうやめよう,と思いました。すべてのパラレルワールドを気にかけている余裕は,短い人生にはない。

 

有限の人生の中で,有限に狭めた道の中から,どういったルートを選んでいくか。

それなら少なからずヒントを見つけられそうです。

どうしたいんだろうなあ,自分。もうちょっと悩んでみよう。

「努力した人」は,「努力の量」で評価されているわけではない

なんか,自分はある程度忙しいほうが色々とものを考えるようになるようです。

帰り道の途中でこんな記事を読んで,考えがむくむくと大きくなってきたのです。

 

www.huffingtonpost.jp

 

ものすごく乱暴に要約すると「努力してるからって偉いわけじゃない」って話です。

ただ本当に,あまりにも要約が乱暴すぎるので,もうちょっと丁寧に,自分なりに考えてみました。

 

「努力」は「才能」が与えられなかった人に用意されている救済措置

まず前提として,「すべてのことにおいて他人より勝る人」というのは存在しません。

この記事を見ている人は,おそらく誰もボルトより速く100mを走れないでしょうし。

誰にでも向いていることと向いていないことがあります。

ある事柄において,それがその人に「特に向いていること」である場合,人はその状態を「才能がある」と表します。

「才能がある」人は,とくに何もしなくても基準の120%の結果を出せたりします。逆に「才能がない」とされる人は,同じことをしても70%までしかいかなかったりします。ゼロとかマイナスにしかならないこともあります。

でも,もし才能がないとみなされるような状態だったとしても,試行錯誤を重ねたり,反復演習を行うことによって,無理やり100%くらいの結果を出せるようになることがあります。そこまでの過程にある行為のことを,人は「努力」と呼びます。

というように「努力」というのは,いわばある分野において才能を与えられなかった人に用意されている救済措置のようなものなのです。

そして,もちろんこれには限界があります。どんだけ頑張っても100%に満たないことなんてザラです。でも,「がんばれば何だってなんとかなる」とか「結果が出せない人は努力を怠っている」と言う人もザラにいます。じゃあお前は努力で空を飛べるのか。

 

※こういう「じゃあお前は空飛べるんか」というような例を出すと,「人間は鳥じゃないから飛べないのは当たり前だろう」とか「でも人間は飛行機を開発したじゃないか」とか言い出す人が必ずいるんですが,前者はたぶん「頑張ればなんでもできる」という理屈を崩したくない人で,後者はそんな世界を変えるような革新的な発明をしたという偉人の実績をさも人類全体の功績みたいにすり替えて自分の話に落とす気のない人なので,どっちも嫌いです。

 

日本人は特に「努力」しか選択肢がなかった人が多かった

江戸時代の農民とか特にそうだと思うのですが,日本人は職業選択の自由とか,移住の自由とかを制限されていた人が大量にいたせいで,「向いている」ことができる人が少なかったのでは,と思います。だからどんなに頑張っても基準に満たないということがわかっていても,「努力」をして少しでもマイナスを減らすしかなかった。そしてそれが結局報われなくても,「これだけ頑張ったんだから」とお互いを慰めたのでは,と思います。

制度上は大分自由になってきた現在でも,置かれた場所で咲きなさいなんて本がベストセラーになるくらいなんだから(読んでないけど),みんながみんな自分の居心地のいい場所に行こうとするわけではない,というように思います。そして,「努力の量」を評価する文化も,まだ残っている。

 

もちろん,努力なんてするだけムダだ,と言いたいわけではありません。多くの場合にとって,努力というものは有効です。

ただ,「努力」というものが意味を成すのは,努力をした結果「意図通りの効果が出た」場合か,「意図通りの効果は出なかったものの,それ以上の効果があることを学ぶことができた」という場合に限られます。それ以外の努力は,残念ながらただ作業量が増えただけ,と言わざるを得ません。

そしてもちろん,そういう何の実にもならない努力をしてしまうことだって,ときにはあります。それを否定しているわけでもありません。問題なのは,それがその人にとって向いていないことだし,どう考えたって何の実にもならない努力を続けているのに,周囲がそれを「努力が足りない」と指摘してその人を責めたりする場合です。努力の量が多いほど偉いなんてことはまったくないのに,それを評価するような土壌が残ってしまっているから。

「他の人はできたのに」とか言う人もいますが,そういう人は個人によって資質が違う,という前提をすっ飛ばして話す人なので嫌いです。でも,きっと同じようなこと,どこかで思ってしまった事があるように思います。自分はあります。

 

努力をしてもどうしようもない人を責めてさらに「努力」を強いることを続けると,最悪その人は自殺するでしょう。でも,そういった事態になるまで,「努力を強いる人」はそのことの重大さに気づかない。

 

最悪の事態に至る前に「あ,ここ,自分がいる場所じゃないのかもしれない」と気づいてその場から離れられたらいいのですが,中々それは難しい…。

最初からお互い友好的に助け合ったり,ポジションを動かしていったりして,少しでも負担が軽くなるようになったらいいのになあ,と残業明けの自分は考えるのでした。

新しいこと,変わらないこと

早いもので,今年ももう半分が終わってしまおうとしています。社会人になってから歳を経る度に,時の流れがどんどんと速くなっているのを感じます。

現実ではしなければならない(ように思える)ことがたくさんあって,それをしているだけであっという間に時間は過ぎていってしまう。本当にやらなきゃいけなかったことだったのか,そんなことは考える余裕もなくって,だからいらなそうなことを何度もしてしまっている気がして。

そういった日々から少しでも抜け出すために,ちょっと新しいことをしようとする。そして,ちょっとずつなにかを得た気になって,ちょっとずつ成長していく。

 

でも,勢い良く日々が過ぎていく中で,なんだか寂しいと思う自分も片隅にいるわけで。あたらしいことを取り込みすぎて,自分の芯がどっかいってしまうのではないか,という感じも一方でするのです。

「自分は自分。少しずつ変わっていく自分もまた,自分」と100%の自信を持って常にいられたらいいのですが,そんな自信,自分にはまだ持てないわけで。あがったりさがったり,がたがたしながら生きています。

 

日々を生きる上で一番大事なのは,リズムだと思うのです。それもただひとつのリズムではなくて,テンポも音色も違ういくつものリズムの掛け合わせ。

それは朝寝ぼけながら聞くラジオの朝番組だったり,お気に入りの定食屋で食べるお昼ごはんだったり,好きな人に言うおやすみだったりします。

異なるリズムがたくさんあるからこそ,そのどれかが突然抜け落ちてもなんとかなるし,生活を続けていけるのです。

色々あってするすると抜け落ちることのある今日このごろ。新しいものを探しにいきたいもんです。

 

手に入らないもの

春で気候が乱れているからか,それとも体調の乱高下が激しいからか,細かいことがすごく目につくようになっている気がする。ジムで使いたかったマシンが一向に空かないとか,歩道の横幅いっぱいに西部警察ばりに酔っ払いが横並びになって歩いててとても邪魔だとか。

だいたいそういう小さいことが気になってイライラする時って,自分のことがよく見通せていなくてモヤモヤして,だから目の前のわかりやすい不満に飛びついて発散しようとしている時だったりする。大きく深呼吸して,なにが不安なのかをよく考えると,案外大丈夫になったり,元気になったりする。

小さいめんどくさいことは確かにイライラするけれど,ゼロになることは絶対にないし,いちいちそれを解決しようとしても無理な話なのだから,むしろどういうふうに対処するか,を考えた方が有益かもしれない。

 

ちっちゃいことは気にしないワカチコ精神でいったほうがいいのです。


ゆってぃ 目指せスーパーアイドル

 

(すいませんこれを書きたいがために記事を書きました)

 

 

でも実際,人生のうえで何を重視して何を切り捨てる,もしくは割り切るか,というのは,意識していないと引っ張られがちになる。

上に書いた「どうやってもなくなりようがないような小さなイライラ」は,いちいち気にしては身がもたないから割り切ったほうがいいもののひとつ。

それとは逆に,「どう転んでも手に入れようがないようなもの」も,憧れ続けると疲れる。ホモから見たノンケとか,そういう感じのもの。

その2つを切り分けてほしいものを整理すると,大分すっきりする気がする。

自分を大事にすること

半年前に異動してきた部署からこの4月でさらに別の部署に異動することになって,すごく頭が痛い。せっかく仕事をだいぶ覚えてきたところだったのに!また全部覚え直しだよ!

 

ただ,殺人的に忙しいスケジュールからは解放されるか…?と淡い期待を抱いていたり。終わりのないエンドレス繁忙期よりはマシな生活ができるように願うばかりです。

 

そして年明け辺りから定期的に体調をガツンと崩すことが多くて,健康であることの偉大さを実感しています。いまも先週から断続的に胃が死んでて重いものが食べられない。ちょっと重いもの食べると吐く。全然消化してくれない。異常にげっぷが出る。

不調の底は脱出したものの,何故か2日で体重が2kg減りました。ほんとなんなんだ…

 

健康,というか身体のこともそうだし,それ以外のことでも自分を大事にすることって大切だよなあ,と思う今日このごろです。休み無しの状態で遊びの誘いをかけられて,無理すれば行けなくもないけれど多分へろへろの状態では楽しめないし,どうしよう…という状態のとき,ちょっと前までは全力で全部OKしてたんですが,最近は断念することも覚えました。相手にも悪いし,自分のためにもならない。そういう時は止めといたほうがお互いのため。

「いいとこでやめとく」を覚えてしまった感じがして,大人になったのかも,と思う反面,老けたか…と思うのもあるのですが,まずは自分の安定が第一です。自分が潰れたら意味がないから,そういう調整は大事。

 

ああ,なんか日本語紡ぐ能力も減退してきている気がする。今日は早く寝よう。

決断とは

土曜日,会社同期の結婚式の二次会に行ってきた。さすがに27歳にもなると結婚式の回数もちょこちょこと増えてきて,みんなそういう時期に差し掛かってきたのかとしみじみしている。

そんな中で,大学時代から知っていて,同じ会社に入った同期が結婚することになりそう,と帰り道に寄ったバーで話してくれた。

仕事が好きで,ほぼ女の人の影もなく(だからといってホモというわけではない),きっとしばらく結婚しないんだろうなあ,と思っていたので,ちょっとびっくりしてしまった。

付き合って一年もしないうちにプロポーズしたと聞いて,人生を左右する決断ってそんな短期間でできてしまうもんだなあ,となんだか感心したというか,拍子抜けしたというか,よくわからない気持ちになった。

 

実際は自分だって人生に大きく影響する選択なんて結構しているはずで,そんなに特別扱いするようなもんでもないと思うのだけれど,周りのノンケには「結婚」とか「家族」とかわかりやすいターニングポイントがあるせいか,なんだかすげえなあ,と圧倒されてしまうときがあるのだ。

それと同時に,そういうわかりやすいゴールがあることが,ちょっとうらやましくもあったりする。

最近,そういう人生の選択について考えてしまうことが多くなってきて,ああ,自分もけっこうおっさんに近づいてきているんだろうか,なんて思ったりもする。

 

自分がどうしたらいいのか,どういう道を進んだらいいのか,なんでもできる人になればいいのか偏った人になればいいのか,行ったり来たりしているうちに周りの人はどんどん決断をしていって,自分だけが置いてけぼりにされてしまうような気持ちになってしまったりもする。

それだけ,自分が内心焦っていて,悩み続けるくらい自分のことをまじめに考えるようになってきたのかも,と考えると,ちょっと進歩してきているような気もする。

いっぱい悩んで,考えて,あとは行動していくだけ。あんまり頭抱えすぎていてもしょうがないし。

さ,月曜だ。