いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

愛されなかった人が愛すことは可能か

 ふたつ前の記事で宮本七生さんの写真展の感想を書いたのだけれど,最近愛すること,愛されることについて考えることが多くなった気がする。

今日は,そのことについて思うところを書いてみようと思う。

 

(ちなみにその感想記事はこちら↓)

seesawseen.hatenablog.com

 

 

人を愛せる能力を自然と備えるかどうかは,「幼少期に愛されたか」に起因する

人って本当におおまかに2つにわけると,「素直に人を信じ,愛せる人」と「なかなか人を信じ,愛せない人」になると思う。

前者は誰とでも分け隔てなくコミュニケーションをとることができ,周囲に優しさを振りまくことができ,特定の誰かを自然と愛することができる。

一方で後者は何らかの要因でコミュニケーションをとるのが苦手な対象が多く,交友関係は限定的か殆ど無く,恋愛はうまくいかず,続かないか,トラブルばかり起こしている。

 

かなり乱暴な分け方をしたが,人間がこのどちらのタイプに属するかは,「幼少期に自分自身が十分に愛されたか」によると思う。

kamipro.com

 

数年前に「黒子のバスケ」脅迫事件という,もう本当にとばっちりとしか言えないような事件があったのだが,この犯人である渡邉被告の最終意見陳述書のなかで,被告自身がなぜ自分が犯罪に走ったのか,という原因について解説している。

少し長いが,記事内から実際の文章を引用する。

 

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか? 端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。


乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。


またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。
この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。


このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。


幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。


「生ける屍」には思春期がありません。感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない「生ける屍」は、それらの問い直し作業をやりようがないのです。

 

感情と規範を十分に与えられずに育った人は,自分の心の中心に感情と規範がリンクしていることにより感じる「安心」がないために,自身の感情を人と,社会とリンクさせることができない。そのことにより人間関係や社会の中から疎外され,更に生きづらさを増していく,というのが,上記の文章の要約である。

このような人は,そもそも人間関係を構築する,という点において大きなハンデというか,障壁を持った状態でのスタートとなる。人を愛すとかいう次元ではないのだ。

 

 

ここまで絶望的な人生をたどっている人はそう多くはないのかもしれないが,幼少期に構築される人間関係,というのは本当に人生にわたって影響するものだ。親からふと発された一言によって,思わぬショックを受けることも少なくない。

自分はゲイだが,9歳位の時に密かにプロレスラーとかの写真を新聞から切り抜いて学習机に隠していたのを親に見つかり,「同性愛は今なら治せるから」と言われたことを今でも忘れていない。

その頃はまだ性的な衝動もなかった頃だし,自分でもなんでその写真が好きなのかの理由が分からなかった頃だった。その時期に「お前がしていることは病気だ」という内容に等しい発言をされたことは,そう簡単に忘れられることではない。

 

 

ショックは消えないが,習慣と訓練で愛することは可能である(…はず)

多かれ少なかれ,なにかのショックが元でその後の人間関係の形成に課題を感じている人は少なくないと思う。

過去に受けたショックというものは,記憶から消し去ることは不可能だ。というか,忘れられたとしても結局良好なコミュニケーションを取れた経験がなければ,結局それを再現して人を愛することはできない。

なんでもそうだが,全くのゼロからなにかを生み出すことなど不可能である。なにもないところから愛なんて生まれてはこない。だとすれば,十分な愛が与えられなかった人は,愛を「学ぶ」必要があるのだ。そして,それを実際の人生で再現しようとし続けることでしか,それを克服することはできない。

学ぶ先は小説やドラマでもいいが,それだと無駄に可能性の低い,ロマンチックすぎる方法ばかり学んでしまって余計こじれるかもしれない。

だから,現実に生きている人から学んだほうがよい。

 

その学ぶプロセスを,恋愛ネタに強い女性ライターのトイアンナさんは以下のようにまとめている。

①これまでの他人と接してきたパターンを把握する
②他人と対等なパートナーシップを築けている人の行動パターンを知る
③自尊心を取り戻していきながら、徐々に②の行動を取るように努める

toianna.hatenablog.com

 

ゲイの暮らしって,どこで見られるんだろうなあ。

ISMagazineでも買ってみるか。

 

 

 

「君の膵臓をたべたい」―他者との関わりのなかで生きること

ちょっと時間ができたので,家にある本や雑誌類を少しずつ消化している。消化するスピードを上回って本を買ってきてしまうので,全然積み本がなくならない。なんてこった。

この「君の膵臓をたべたい」も,そのとき買ってきた本のうちの一冊。

 

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 

思えばしばらくの間,まとまった量の小説を読んでなかったなあ,と振り返って思った。いや,正確には「世界から猫が消えたなら」くらいは読んだのだけれど,あれは小説というよりかは映画の台本に近くて,あんまり印象に残らない感じだった。あれは映画のほうが絶対にいい。

で,この「君の膵臓をたべたい」。デビュー作にして2015年の本屋大賞第二位の作品。題名のインパクトとアンマッチな優しいタッチの装丁,そして中身が目を引いたのか,とても売れている模様。

 

高校生の話で,自分以外の人間と関わる気のない主人公と,溌剌とした女の子・桜良のふたりの掛け合いで話が進行していく。

会話のテンポが良くて読みやすいし,心情の変化もわかりやすくて好感が持てた。ただ,表紙のカラーリングからか,桜のイメージからか,桜良の性格からか,なんとなく「四月は君の嘘」が頭をかすめた。ので,桜良のビジュアルが完全に宮園かおりとかぶった形でイメージされた。いや,ストーリーは結構違うので,全然いいのだけど。

 

ある相手に惹かれて興味を持つ時,というのは大きく分けて2つのパターンがあると思っている。

ひとつは自分と同じ要素がある,と感じる時。

もう一つは,自分と逆の要素があると感じる時。

今回の物語は,後者の方のパターンにあたる。

そして,おそらく後者の方が,驚きと発見にあふれた出会いとなる,と思う。

 

人と人との間には,必ず「ズレ」が存在する。

見た目とか,価値観とか,信念とか。全く同じ人はいない。

そのズレを認識し,認めあうことで,自分もそのズレを取り込んで,より豊かな存在になることができる。

そのそれぞれとのズレを反射して,何かを感じるということが,生きることだと思う。

 

物語の中で,桜良も「生きる」ことの定義を解いている。ぜひ,手にとって読んで欲しい。

宮本七生「曖昧」―曖昧なんてものはないこと

ちょっと前のことになるのだけれど,宮本七生さんという写真家さんの「曖昧」という写真展を見てきた。

宮本さんは,僕が最近まで受講していた編集・ライター向けの養成講座で取材をさせてもらった方だ。「正面」という作品をtwitter上で見かけて,自分も撮って欲しいと願い出たのが出会ったきっかけである。

 

miyamoto-shitisan.tumblr.com

 

最初は飄々と生きているような印象を受けたけれど,宮本さん自身が人を,写真を見つめる目はいたって冷静だ。淡々としている。

「他人への諦観があるせいだと思う」と,宮本さんは取材の時に自身の過去を振り返って言った。ただ,その感覚も,時間を経るごとに変化が生じているらしい。

 

今回の写真展で宮本さんが発表した作品「曖昧」は,その変化を如実に表すものだと感じた。

友人と恋人との間にある,曖昧さの検証。

その検証結果となる10対の写真が示していたのは,宮本さんが自ら述べていたように「曖昧さなど存在しない」という結果だったと思う。

 

よく,「友達以上恋人未満」という言葉を聞くことがあると思う。

これはつまり,「友達」という言葉でも「恋人」という言葉でも指し示せない関係が,グラデーションのように存在することを示している。

ただ,それは言葉で的確に表せないだけで,その関係にある人の関係性自体が曖昧である,というわけではない。そこには確かに,いくつかの線引きが存在している。ただ僕たちがそれらの間を明確に語り分ける言葉を持たないだけの話だ。

 

たまたま同時期に,別のライターさんから勧められて読んでいた本にも,同様の事が記述されていた。

 

いま,私達が当たり前のように話している言葉のうち,その多くは先人が何とかそれぞれの概念を具現化しようと,苦労して「作られた言葉」である。

同じ「話すこと」を示すカテゴリーの言葉でも,「演説」「スピーチ」「教授」「対論」などと,異なる形態のカテゴリを言い分けられるのは,外国文化が入ってきた明治時代の人間が血の滲むような苦労をして語り分けるための言葉を作ったからだ。

 

その一方,現代になっても語りわけられない言葉もまだまだ沢山あるのだ。一言で言い当てられない概念もまだまだたくさん存在する。言葉を与えられていないそれらの概念は,ことばでものを考える人々にとってはひどく形のないものに見えて,その結果,曖昧なものとして処理されてしまうのかもしれない。

でも,繰り返すが,それは「関係性が曖昧」なのではなくて,「関係性を言い表す言葉が曖昧」なのである。

そして,その関係性をすべて正確に言い表す必要があるとも思わない。言葉と関係は相互に作用しあっている。「恋人」という関係が与えられてから始まる恋愛もあるように。お互いが定義した言葉に引き寄せられて,関係が変わることもあるのだ。

 

だから,曖昧な関係に言葉をつけよう,ということではない。言葉では表せない互いの距離感を理解できた時に感じる,透き通った感覚の片鱗を,写真という形で示したのが,今回の宮本さんの作品だと思う。

 

いいものを見られた。次は何が見られるのだろう。

「察してくれ」というスタンスでコミュニケーションを取ろうとすることの身勝手さ

自慢じゃないけど、自分は自分の意見をストレートに伝えるのが苦手だ。当意即妙に言葉を返すのも苦手だ。

要はコミュ障なのである。

今日は最近諸々上手くいっていないので、言い訳と反省がてらのエントリだ。なので基本的に自分がこじれているのはわかっている。でもちょっと、吐いておきたいのである。

 

中学・高校の頃から、クラスの中心で笑っている、誰とでも打ち解けることができる中心的存在のクラスメイトを横目で見ながら、教室の端っこでひっそりと生きていた。ちょこちょこ漫画を呼んだり、ゲームをしたりしていた。中学の頃はノートを回覧してみんなでへんてこな小説を書いていたりしていたし、高校生の時は部室にこもってごろごろしながら漫画を読んだりしていた。スポーツができてモテたりとか、面白いことを言って人を笑わせたりするのが苦手だった。そういう人は別の人種だと思っていた。

 

自分とは違う世界で、キラキラ輝きながら、何の悩みもないように、夢にむかって生きている。そういうふうに、自分はなれない。そう思って学生時代を過ごしてきた。

 

そんな自分も大学生になり、メガネをコンタクトに変え、なんとか苦労しながらも就活を乗り越えて社会人になった。就活した結果入社することになった会社は世間的に言うと「いい会社」で、その中には「いい人」がたくさんいた。自己PRではキラキラした経歴を誇らしげに語る学生が沢山いた。その中で選りすぐりのキラキラ度を誇る学生が少なからず採られて、自分の同期になった。

 

自分は自分で過去のコミュ障ぶりを挽回しようと、色々手を尽くした。体を鍛え、雑誌を読んでちょっとおしゃれ目な服を買い、髪型を整えた。学生の頃と比べて、容姿としては大分マシになったほうだと思う。

 

外見は努力さえしていれば、コミュニケーションをとらなくてもある程度なんとかなるから楽である。だれとも喋らなくても、ネットで調べてジムで一人で頑張って重量を増やしていれば筋肉はつく。

そして、ホモの世界は見た目がある程度マシで若ければ、ある程度はちやほやしてもらえる。あんまりしゃべらなくても、ニコニコしていればある程度はやっていける。

 

でも、実際の人生はニコニコしているだけではいかない場合のほうが多い。仕事を進めるには内容を他人に説明できなければいけないし、話し合って最適解を模索していく必要もある。プライベートでも、自分の考えを適当に濁すだけでは関係を構築できない。

キラキラしている人は、きちんと自分の考えを伝えてそれを行うことができる。素直に気持ちを伝えることもできる。

でも、直接考えを伝えて自分が否定されるのが嫌な、あまのじゃくな自分は、コミュニケーションの仕方をややひん曲げてものを言うことを覚えた。

 

「直接意図を伝えないで、相手に察させる」のである。

 

「あーちょっと調子悪いかも~~」とか、「あーおなかすいたな~~なんか食べようかな~~」とか、簡単に言うとそんな類の言葉を発するようになったのだ。

優しい人はそれで「大丈夫?」とか「ごはんいこう」とか話しかけてくれる。ちょっとつらそうにしていれば、心配してくれる。げんなりしていれば励ましてくれる。そういう態度をとっていれば誰かが気にかけてくれる。

 

要するにコミュニケーションの成否を相手に依存しているのである。これだと単に相手にとって負担なだけである。そして身勝手である。

でも、それでも気になるからとか、心配だからといって声をかけてくれる人はいるのである。そういう人にまた頼ってしまうと、そういったコミュニケーションでもなんとか通ってしまうのだ。なので、ついつい使ってしまう。

自分が弱っている時とかは、延々とそういった手段をとってしまいがちになってしまって、次第に周りが呆れかけて来ているのがちょっとわかるのである。そうなると更に、自分の中で落ち込んでいく。

 

そういうの、どっかで断ち切らねばいかんのである。察してもらうことを前提にして言葉を複雑にして余計な負担を増やすよりも、さっさと正直に気持ちを吐いてしまえばいいのである(そうするタイミングは測る必要があるが)。

でも、いざやろうとするとどうしたらいいかわからんのだよなあ。

結局、そうやって伝えようとする場数を増やしていって、上達していくしかないのかもしれない。

 

地道だ。地道な道のりに耐える必要がある。すぐに全部が変わる魔法なんてない。

伝えようとし続けていくしかない。

 

ちょっとそのためには、今のこじれた生活を一度立て直さなければならん。

腹くくるか…。

「世界から猫が消えたなら」―思い出を紐付け続けること

生きる,ということは,問いを立て続け,それに答えを紐付け続けていくことだと思う。
なぜわたしは生きるのか。なんのために生きるのか。何がないと生きられないのか。
人はそれぞれ,自分に対して常に問いを課しながら,答えを探し求めて彷徨う。
そのなかで,「もし明日死ぬとしたら」という問いを立て続けたのが,この物語だ。
 
「明日死ぬはずの命が,あるものを消すことで伸びるとするなら,それを消すか」という問いは,「何が自分を生きながらえさせているか」という問いとほぼ同じだ。この映画では例をいくつか示すことで,その問いに答えている。
電話,映画,時計,そして猫。映画ではモノがなくなるのと同時に,それに付随する記憶が失われる(原作小説では,記憶消失までは設定として盛り込まれていない。現に電話が消えた後も,「僕」は「彼女」と会って話をしている)。
電話が消えた時,「僕」は「彼女」との思い出が自分にとって大切なものだったと気づく。
映画が消えた時,「僕」はツタヤとの思い出が自分にとって大切なものだったと気づくと共に,「彼女」とも映画で繋がっていたことに気づく。
時計が消えた時は,「僕」の家族、特に父親との関係を考える上でそれが重要な鍵になっていたことに気づく。
そして猫が消えるとなった時は,「僕」にとって生きていく上で、忘れてはいけない存在として家族がいたことに気づくーー。
 
この物語においてフォーカスされているのはモノに紐付いている人との思い出だ。
だが,消えてゆくモノはそれらの思い出を引き出す触媒として,重要な役割を果たしている。
 
よく聴いていたCDとか,告白した場所とか,使っていた柔軟剤の匂いとか。
なにかきっかけとしてのモノが目の前に現れた時,ぼくらはそれにつながった何かを思い出す。
ひとつのモノにいくつか思い出がつながっていることもあれば,たくさんつながっていることもあるし,ひとつだけだけどとても強い思い出がつながっていることもある。
そうやって絡まった思い出の糸が太いほど,強いほど,それが自分をより強く生かす理由になる。
 
 
 
 
あーなんかおもいっきり文が硬くなってしまった。息苦しい。
要するに「思い出が人を生かす原動力になるのだけれど,意外と何もなしにそれを思い出すのってキツくって,つい忘れちゃう。でも思い出せなくても思い出自体がなくなってしまったわけではまったくなくって,それに紐付いているモノを見れば確かにそれを思い出すことはできる。そういった,沢山の隠れた思い出が自分を生かしている」というテーマの映画でした。
 
面白いと思ったのが,モノに紐付いている思い出が辛い思い出であっても,それも自分を支えるもののひとつになり得る,ということだった。
人の思い出って,楽しいことだけでできているわけじゃない。つらい時期だって,苦しんでいた時期だってきっとあったはずで,そしてそういうこともきちんと覚えているからこそ,今同じ悩みを抱えずに済んでいる,ということもある。
清濁併せ呑んだ思い出を沢山抱えて,たくさんたくさん残していったほうが,きっともっと,あとから後悔しない人生を送ることができるのだろう。

晩ごはんを一人で食べたくない時が増えてきた

最近,晩ごはんを誰かと食べる機会が増えてきた。

 

結構前は本当に少なかったのだ。2週間くらいぜんぶひとりでばんごはん,というのも珍しくなかった気がする。めっちゃ自炊を頑張っていたりとかもした。誰かと付き合っているときは流石に週1くらいは一緒に晩ごはんを食べるが,その他はそんなに頻繁にだれかと晩ごはんを食べる,というのがなかった気がする。

それくらい,人付き合いも結構希薄だったし,そもそも人を晩ごはんに誘う,というのが下手だった。というか,必要性をあんまり感じていなかった。

一人でご飯を食べていても,それが一人用のごはんで,かつ美味しければ一人でも別にいいや,と思っていた。美味しいし。自分のペースで食べられるし,好きなところで食べられるし。

 

でも最近,というかここ1年位で,なにかとだれかとの晩ごはんに誘われたり誘ったり,付き合いで飲みに行ったり,という機会が増えてくるに従って,自分の晩ごはんに変化が起きてきた。

 

ご飯がおいしいのにおいしくないときがあるのである。

 

何を言っているのか自分でもあまり良くわからないけれど,とにかくそうなのである。

いや,ご飯自体はおいしいのだ。それなりに自分が知っている好きな店も多くなってきたし,実際に出てくるご飯もおいしい。ちなみに今日は下北沢のスープカレー屋さん「心」で野菜と骨付きチキンが入ったスープカレーを食べてきた。ふつうにおいしかった。

でも,SNSにごはんの写真をアップして,一人でもくもくとご飯を食べていると,なんかどんどん寂しくなってくるのである。

自分はおいしいとSNSにつぶやいて反応を貰いたいのではなくて,たぶん「おいしいねえ」と言いながら適当に話をしていられたり,酒を飲みながらぐだぐだ喋っている相手がいてほしいのだろう,と思う。

 

この変化,結構自分にとってはびっくりするようなものだなあ,と最近思う。

こんなに他人との関わりを億劫に感じていて,かつそれで満足していたと思っていたのが,実は満足なんてさらさらしていなくて,本心ではやっぱり寂しかったんじゃねえか,というのが明るみに出てきたのである。

今までの自分は「いや違う,そうではない,自分は一人でもやっていける」と思いこむようにして,寂しいという気持ちを押し殺してきたのだと思う。

でも,そうじゃないようだ。

自分だって誰かと関わって生きていきたいのである。

 

週2くらいでは晩ごはんを食べに行きたいので,いろいろ誘ってみることにしよう。

「ちはやふる 下の句」ー 何のために、を考えること

ちはやふる下の句公開時に続編制作発表と、興行的にも大成功を収めている映画「ちはやふる」。

GW中に2回観に行きました。例に漏れずとてもよかった。
 
上の句の時は原作を何も読まず、アニメも見ずに行っていたのですが、今回は1回目を観終わった段階でアニメ1期を半分見ました。そこでやっと原作での物語順を差し替えたり引っこ抜いたりしていることに気がつきました。
かなり順番を変えていることがわかったのですが、2時間×2本の映画の中で盛り上がりと上下の接続を考えると、たしかに並び替えた方が収まりがいいなあ、と感心しておりました。
 
物語として「百人一首という文科系なのか体育会系なのかもはやわからないバトルスポーツを通して成長する高校生男女の群像劇」という主題を一切崩さずに再構成できていること、役者に合わせてキャラクターの細かな性格をチューニングしているところは見事だなー、と。
キャラクターのチューニングが顕著だったのは千早と新だと思っていて、千早は広瀬すずに合わせて底抜けにひたむきなカルタバカに、新は真剣佑に合わせてややマイルドな迷える少年にそれぞれ変わっているなあ、と思いました。
(真剣佑も調べたら俳優・千葉真一の息子だったり帰国子女で英語ペラペラだったり空手の腕が異常にうまかったりと、スターど真ん中みたいな逸材らしいのですが、それを一切感じさせないオーラの消し方も絶妙だなーと後から震えてました)
 
 
ここまでが全体的に思ったことなのですが、ここからは個人的に注目していたことを。
 
上の句は「仲間をつくることで、できないを乗り越えること」に主眼が置かれていた気がしました。机くんを中心としたエピソードが象徴していたと思います。
「できないんだったら、勝てないんだったら、かるたなんてやらなきゃよかった」と机くんが嘆いたこと。「才能がなくても、辛くてもやっている」と言葉を絞り出す太一。
太一が千早を想うシーンも出て気はするのですが、愛情よりも、圧倒的に友情がテーマです。
 
そして下の句では、「何のためにかるたをするのか」の葛藤と解決、がテーマであったと思います。
上の句であまり登場しなかった新、そして松岡茉優演じる若宮詩暢の登場が、このテーマの存在を強調します。
 
「じいちゃん=綿谷名人のため」にかるたをしていたが、名人を失ったことにより目的を見失う新。
「新と、太一とまた一緒にかるたをするため」にかるたをしてきたが、道を見失った新のために打倒クイーンを目指す千早。
「千早のため」にかるたをしているものの、「仲間のため」にもしていることのバランスを取ろうとして、千早にきつくあたってしまう太一。
 
元は「だれかのため」にかるたをしてきた三人が、それぞれが向く方角と強さのすれ違いにより、途中で瓦解しかけてしまう。
ひとりになってはいけない、という気持ちとは裏腹にそれぞれがひとりになろうとしてしまう。
 
ある程度何かをし続けていったときに、「あれ、自分って何のためにこれをしていたんだっけ」と考えてしまったがために全部がうまくいかなくなってしまう、という状態が、(今まさに自分がそうなっているだけに)すごく心にきました。
ちはやふるの中でそれを救ったのは、千早・太一がそれまで努力した結果としてついてきてくれた、仲間でした。
その経験を通して、千早と太一は「誰かひとりのためのかるた」という目的の他に、「仲間のためのかるた」という目的を得ます。
 
それとは対照的に、純粋に「自分のため」としてかるたをとっていた詩暢は、千早戦での千早の姿に驚きます。
この時の千早は、もはやかるたをとるいくつかの目的を飛び越えて、「かるたは楽しい」という心の元にかるたを取っていたのではないか、と思います。おそらく本人もそのときに「かるたは楽しい、かるたは楽しい」と思ってからかるたをしていたわけではない。やっているうちに「楽しい」という気持ちが、本人も言語化できない状態から湧き上がったのだと思います。
 
その千早の姿を見て涙する新に、原田先生が「かるたをする理由は、一つじゃなくてもいいだろう」と声をかけます。この言葉が、下の句の映画でのテーマに対する答えになっているのだと思います。
 
 
今まで自分が歩いて来た道が、これからの自分を照らしてくれる導となること。
何かをするために、明確な理由をひとつだけに絞る理由はないこと。
やっている中で、新たに理由を見つけられることもあること。
 
迷って立ち止まる自分に、力をくれる映画でした。
続編も楽しみ…!