いつかヒトになるためのレッスン

20代ゲイです。人生いったりきたり。再開した小説はこちら→http://ayamina.hatenablog.jp

晩ごはんを一人で食べたくない時が増えてきた

最近,晩ごはんを誰かと食べる機会が増えてきた。

 

結構前は本当に少なかったのだ。2週間くらいぜんぶひとりでばんごはん,というのも珍しくなかった気がする。めっちゃ自炊を頑張っていたりとかもした。誰かと付き合っているときは流石に週1くらいは一緒に晩ごはんを食べるが,その他はそんなに頻繁にだれかと晩ごはんを食べる,というのがなかった気がする。

それくらい,人付き合いも結構希薄だったし,そもそも人を晩ごはんに誘う,というのが下手だった。というか,必要性をあんまり感じていなかった。

一人でご飯を食べていても,それが一人用のごはんで,かつ美味しければ一人でも別にいいや,と思っていた。美味しいし。自分のペースで食べられるし,好きなところで食べられるし。

 

でも最近,というかここ1年位で,なにかとだれかとの晩ごはんに誘われたり誘ったり,付き合いで飲みに行ったり,という機会が増えてくるに従って,自分の晩ごはんに変化が起きてきた。

 

ご飯がおいしいのにおいしくないときがあるのである。

 

何を言っているのか自分でもあまり良くわからないけれど,とにかくそうなのである。

いや,ご飯自体はおいしいのだ。それなりに自分が知っている好きな店も多くなってきたし,実際に出てくるご飯もおいしい。ちなみに今日は下北沢のスープカレー屋さん「心」で野菜と骨付きチキンが入ったスープカレーを食べてきた。ふつうにおいしかった。

でも,SNSにごはんの写真をアップして,一人でもくもくとご飯を食べていると,なんかどんどん寂しくなってくるのである。

自分はおいしいとSNSにつぶやいて反応を貰いたいのではなくて,たぶん「おいしいねえ」と言いながら適当に話をしていられたり,酒を飲みながらぐだぐだ喋っている相手がいてほしいのだろう,と思う。

 

この変化,結構自分にとってはびっくりするようなものだなあ,と最近思う。

こんなに他人との関わりを億劫に感じていて,かつそれで満足していたと思っていたのが,実は満足なんてさらさらしていなくて,本心ではやっぱり寂しかったんじゃねえか,というのが明るみに出てきたのである。

今までの自分は「いや違う,そうではない,自分は一人でもやっていける」と思いこむようにして,寂しいという気持ちを押し殺してきたのだと思う。

でも,そうじゃないようだ。

自分だって誰かと関わって生きていきたいのである。

 

週2くらいでは晩ごはんを食べに行きたいので,いろいろ誘ってみることにしよう。

「ちはやふる 下の句」ー 何のために、を考えること

ちはやふる下の句公開時に続編制作発表と、興行的にも大成功を収めている映画「ちはやふる」。

GW中に2回観に行きました。例に漏れずとてもよかった。
 
上の句の時は原作を何も読まず、アニメも見ずに行っていたのですが、今回は1回目を観終わった段階でアニメ1期を半分見ました。そこでやっと原作での物語順を差し替えたり引っこ抜いたりしていることに気がつきました。
かなり順番を変えていることがわかったのですが、2時間×2本の映画の中で盛り上がりと上下の接続を考えると、たしかに並び替えた方が収まりがいいなあ、と感心しておりました。
 
物語として「百人一首という文科系なのか体育会系なのかもはやわからないバトルスポーツを通して成長する高校生男女の群像劇」という主題を一切崩さずに再構成できていること、役者に合わせてキャラクターの細かな性格をチューニングしているところは見事だなー、と。
キャラクターのチューニングが顕著だったのは千早と新だと思っていて、千早は広瀬すずに合わせて底抜けにひたむきなカルタバカに、新は真剣佑に合わせてややマイルドな迷える少年にそれぞれ変わっているなあ、と思いました。
(真剣佑も調べたら俳優・千葉真一の息子だったり帰国子女で英語ペラペラだったり空手の腕が異常にうまかったりと、スターど真ん中みたいな逸材らしいのですが、それを一切感じさせないオーラの消し方も絶妙だなーと後から震えてました)
 
 
ここまでが全体的に思ったことなのですが、ここからは個人的に注目していたことを。
 
上の句は「仲間をつくることで、できないを乗り越えること」に主眼が置かれていた気がしました。机くんを中心としたエピソードが象徴していたと思います。
「できないんだったら、勝てないんだったら、かるたなんてやらなきゃよかった」と机くんが嘆いたこと。「才能がなくても、辛くてもやっている」と言葉を絞り出す太一。
太一が千早を想うシーンも出て気はするのですが、愛情よりも、圧倒的に友情がテーマです。
 
そして下の句では、「何のためにかるたをするのか」の葛藤と解決、がテーマであったと思います。
上の句であまり登場しなかった新、そして松岡茉優演じる若宮詩暢の登場が、このテーマの存在を強調します。
 
「じいちゃん=綿谷名人のため」にかるたをしていたが、名人を失ったことにより目的を見失う新。
「新と、太一とまた一緒にかるたをするため」にかるたをしてきたが、道を見失った新のために打倒クイーンを目指す千早。
「千早のため」にかるたをしているものの、「仲間のため」にもしていることのバランスを取ろうとして、千早にきつくあたってしまう太一。
 
元は「だれかのため」にかるたをしてきた三人が、それぞれが向く方角と強さのすれ違いにより、途中で瓦解しかけてしまう。
ひとりになってはいけない、という気持ちとは裏腹にそれぞれがひとりになろうとしてしまう。
 
ある程度何かをし続けていったときに、「あれ、自分って何のためにこれをしていたんだっけ」と考えてしまったがために全部がうまくいかなくなってしまう、という状態が、(今まさに自分がそうなっているだけに)すごく心にきました。
ちはやふるの中でそれを救ったのは、千早・太一がそれまで努力した結果としてついてきてくれた、仲間でした。
その経験を通して、千早と太一は「誰かひとりのためのかるた」という目的の他に、「仲間のためのかるた」という目的を得ます。
 
それとは対照的に、純粋に「自分のため」としてかるたをとっていた詩暢は、千早戦での千早の姿に驚きます。
この時の千早は、もはやかるたをとるいくつかの目的を飛び越えて、「かるたは楽しい」という心の元にかるたを取っていたのではないか、と思います。おそらく本人もそのときに「かるたは楽しい、かるたは楽しい」と思ってからかるたをしていたわけではない。やっているうちに「楽しい」という気持ちが、本人も言語化できない状態から湧き上がったのだと思います。
 
その千早の姿を見て涙する新に、原田先生が「かるたをする理由は、一つじゃなくてもいいだろう」と声をかけます。この言葉が、下の句の映画でのテーマに対する答えになっているのだと思います。
 
 
今まで自分が歩いて来た道が、これからの自分を照らしてくれる導となること。
何かをするために、明確な理由をひとつだけに絞る理由はないこと。
やっている中で、新たに理由を見つけられることもあること。
 
迷って立ち止まる自分に、力をくれる映画でした。
続編も楽しみ…!

「うまく」表現するために必要なこと

自分のために始めた,ライター・編集者養成講座の修了式が近づいている。

皆,卒業制作として人に取材を行い,一本記事を書くことになっている。自分はTwitterで知り合ったカメラマン/写真家の方に取材を行った。その原稿を今日の午後,コワーキングスペースにこもってずっと書いていた。

 

もう,全然適切と思われる言葉が出てこない。最初に立てた構成通りに記事が進まないし,書いているうちに内容が枝葉に分かれて本筋からずれていっている気がするし,聞き足りなかったこともあるし。

心の中になんとなく意図はあるはずなのだけれど,上手く表出できない。

でも,とりあえず構成がガタガタなまま最後まで通して書き出して印刷し,明らかに足りないところにだけ赤を入れて一旦側に置いておいている。

 

文を扱う仕事に携わっていたけれど,全然扱っている題材が違うし,当然ながら書くことも,自分が担当する業務範囲も全然違うので,うまくいかないのは当たり前のことである。でも,「うまくいかない」ことに躊躇している自分がいる。

 

今までの人生でも,同じようなことがたくさんあった。上手く伝えられないから人と話すのが苦手,上手くできないから中途半端に物事に関わるのが苦手,深く関われないから趣味と言えそうなものを自分の外に表出するのが苦手。

「うまくできない」から何かを諦める,という決断を下してきたことが多かった。

 

文字を扱うことを仕事にしたいと思ったのも,気持ちがずれないように文字という形で固定しておきたかったからだ。ころころと気持ちが変わる人間を相手にすると裏切られる。前はこう言っていたじゃないか,となってしまう。だから,文章として固定されている作品を相手にしていれば,そんな変化に惑わされることなんてないんじゃないか,と思ったのだ。固定化できる表現であれば,「うまく」表現できるんじゃないか,と思ったのだ。

でも,最近になって,ぜんぜんそんなことない,というのが嫌でも見えてくるようになってしまった。

 

そもそも最初からうまく表現できることなんてない,ということを嫌でも日々思い知らされる。職場でのコミュニケーションは結構半歩遅れてしまうし,大事な人に自分の気持ちを伝えきれない,ということもある。全然伝えたい事が伝わらない。

でも「うまく」表現できることを自分の念頭に置いてしまうから,目標水準だけは高い。しかもそれに一発で到達できると思っているような節が,自分にある。認めたくなかったけど,確かにある。

 

そんなん無理だ。

 

無理だよ。やってないことが突然上手くできるようになんてならない。したこともないことをノーミスでクリアできるはずがない。だってそれについて,大して何も知らないんだもの。

 

「うまくできる」ことを目標にすると,そういうことが起きるんだと思う。多分根底には,「失敗したくない」という気持ちと,何かよくわからないけど失敗したくないというプライドがあるんだと思う。

 

前々から横目で見ながら遠ざけてきた事実だけど,最近本当に,もうありがたいことに直接指摘してくれる人や,それを思い知らせてくれる人との出会いがあって,やっとちゃんと向きあおうという気持ちになれてきている。

しかもそのコミュニケーションのなかで,自分は「うまく」コミュニケーションを撮ろうとした記憶が全くない。自分が思っていることを,汚い気持ちも含めて,げろげろと吐き出してしまった結果,それに気づけている状態なのだ。

自分の求める「うまい」表現の結果得ようとしていたことが,「うまくない」コミュニケーションによって達成されている状態になっているのである。

 

こうなると,なにが適切なコミュニケーションなのかどうかわからなくなってくる。上手く伝えようとすると空回りして,どうしようもない感じでコミュニケーションをすると結果的に前進できて,という,思っていたのと逆の結果になってしまっている。

そもそもコミュニケーションに適切さなんてあるのか,という話になるのだけれど,でも,本当に大切にしたい人と向き合う時は,「うまく」表現しようとすることは不正解なんだろうな,と,思うようになってきている。

 

人と向き合って,自分のあらが明るみに出てしまって,ぼろぼろになるのが嫌だからそういうコミュニケーションをとりたくなかったのかもしれない。

でも,自分を守ってばっかりいると,今度は自分の精神がねじ切れてしまいそうになる。それなら,ボロボロになりながらも,前に進んだほうがいいのだろうな,とは思う。

 

こういうのいちいち考えてめんどくせえ生き方だな,と自分でも思う。でも人生ってめんどくさいもんだよな,きっと。めんどくさいなら,もうちょい納得できるように生きたいな。

知らないことを隠さないこと,自分を隠さないこと

たとえば朝起きたときに,夢でみたなにか気になるものを目覚めながら思い出したとする。それについてなにか調べておきたいと思ったとする。

でもベッドから出たときにそれの輪郭はとたんにおぼろげになり,朝ごはんの準備をしているときにはほとんど思い出せなくなり,朝ごはんを食べるときには完全に記憶の外に放り投げられてしまう。

なにかについて「これは調べて起きたい,覚えておかなければ」と思っても,それらは簡単に手の指の間をすり抜けて,こぼれ落ちてしまうのだ。

 

でも,そのこぼれ落ちたものがひょんなことから手元に戻ってくることもある。

 


**ひみつ@megaphonic

 

今日ひょんなことからYUKIの話になって,いろいろそれぞれが好きな曲を話し合い,YOUTUBEでだらだらと見続けていた。そういえば高校生〜大学生にかけてよく聞いていたな,とか,JOYのPVをずっと見続けていたな,とか,芋づる式にいろいろな思い出が引っ張りだされてきた。

そのときに,「案外自分って色々覚えているんだなあ」という気持ちとともに,「知らない部分についても,知ったかぶりせずに素直に興味を持つ事ができるようになってきたんだなあ」ということも思うようになった。

 

今までの自分は「何かを知らないこと」に対して結構コンプレックスをもっていて,「それって何?」とは聞けずに知ったかぶりをすることがなかなか多かった。だから少しでも突っ込んだことを聞かれてしまうとアウトで,恥をかくことも少なくなかった。

でも,最近になってそんな意地を張っていてもしょうがない,とやっと思えるようになってきた気がする。知らないものは知らないのだ。

知らないものは知らない,のだけれど,「知らないこと」を面白がって「それってどんなもの?」と聞ける,それで自分もそれを知ることができる。そうすると,大分素直に人と楽しいことを共有することができる。

そしてそれは,自分のことを人に伝えるときにも,同じことが言える。

 

素直に自分のことを喋ることができないと,相手から見た自分と自分の知っている自分との間にどんどんズレが生じてくる。相手は自分がつくりだした,操作された「自分」の像を見ているものだから,相手がちょっと的から外れたことを言ったりすると「自分のことをよく知らないくせに」とか思ってしまったりする。そりゃそうだ,自分で自分の事を話していないんだから。

わざわざ作った自分像を持ちださなくても良いのだ。綺麗に整えなくてもいいのだ。それでも,側にいられる人はいる。

 

自分が知らないことはひとつずつ拾っていって,

相手が知らない自分もすこしずつ明かしていって。

そうすることで,もう少しずつ,生きやすくしていこう。

思い出を相対評価しないようにすること

今日は大学時代からの友達と,花見に行ってきた。

といっても,ランチ食べたあと最初に行った目黒川はほとんど桜が咲いていなくて,結局水道橋に移動してちょこっと咲いている桜を見て,あとは飲んで話していた。

桜見るより話すほうがしたかったし,とても楽しく過ごすことができた。

 

あー楽しかった!と帰ってInstagramを開いてみると,他の人も結構花見をしている様子が見られた。桜が結構咲いてる公園で持ち寄りの食べ物を開いている人もいれば,なんかよくわからないけどテーブルにシャンパン置いてあるセレブな花見もあったりとか。

 

今は大分考えを変えていく事ができてきているけれど,他人に起きた出来事と自分に起きた出来事を比べて「あっちのほうがよかった」とか思うのって,とても不毛で無意味だし,何より精神衛生に悪い。「好きな人が恋敵とふたりきりで遊んでてこれはヤってるの確定でしょ」といったような場合であればまだわかるが,適当に見た,そんな親しい人でもない,ただアカウントをフォローしているだけの人の生活と比べる必要性は全くない。

いや,大体の人はこんなことわかって生きているのだと思うのだが,自分の場合は本当にこの切り分けができていなかったのだ。そして今もたまにできない時がある。

住む世界が異なっている(レベルが違うという意味だけではなく,単に交わる可能性がないであろう)人の出来事を見ることができるようになってしまったがために,いらぬ感情を持つことになってしまった。いや,そもそもそういうものがなくても,自分は周りを見て羨んでばかりの人生だったような気がする。

運動部の人間に憧れながら運動部には入らなかったし,人気者に片思いをしながら話しかけられずに終わったこともあった。コミュニケーションがうまいひとに憧れながら,自分では交わろうとせず,また話の種を見つけるようなこともしなかった。

 

他人と比べてしまう場合,自分はきっとその観点に関してコンプレックスを持っていると思うのだ。だから比較してしまう。現に興味の全くないことに関しては,どれだけ相手が貴重な体験をしていようと気にならないし,自分だけが理解できていれば良いようなことを体験した時は他人と比べるまでもなくその思い出が大事だと思える。

でも,自分が体験した思い出に相対比較で価値をつけることはしなくてよい。自分がどう感じたか,で決めればよい。

 

今日は,とても良い日だった。

映画「ちはやふる 上の句」 ー 知ることが、人生を鮮やかにする

原作もアニメも全く見てないんですが、映画「ちはやふる 上の句」を観てきました。

二度。
一度だけでは足りなかった。
 
 
(以下、ネタバレ含むためご注意)
 
 
 
 
 
 
 
「ことば」と「おと」を大事にしている映画だ、と思った。
ちはやふる」で取り上げる題材となっているのは、競技かるた。いわゆる百人一首だ。千年もの昔の人が詠んだ名歌が今の今まで引き継がれ、千早や太一をはじめとする登場人物たちは、その歌のもつ意味に自らの想いを重ねながら、競技かるたにのめり込んでいく。
 
名歌は声に出して読むことで、美しさを増す。その語感だけでも心地良い。それに加えて歌の持つ意味を理解していくと、それぞれの歌の背後に物語が現れてくる。
それを知ることで、千年後の自分たちが見る光景もまた、色鮮やかなものになっていく。その過程や感覚を絶妙に表現しているような音楽の使い方が完璧になされていて、登場人物と感情がシンクロする感覚に陥ることができたのがほんとうに心地よかった。
 
 
このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
 
「上の句」の劇中で出てくる歌の中で、一番好きだった歌がこれだ。
おおよそ「今回の旅は急だったので、神様にお供えするものを持ち合わせておりません。山の紅葉を捧げますので、後のご判断は神様にお任せします」という意味となる。ここから、原田先生はうちひしがれる太一に「神に祈ることができるのは、できることを全てやりきった人だけなんじゃないかな」という解釈を導き出した。
そこから繰り出される「賭けてから言いなさい」の言葉の威力は、凄まじいものがある。
 
この言葉を紡ぎ出すためには、まず原田先生は太一のこと、千早のこと、そして新のこと、そしてその関係性を知っている必要がある。太一が何に悩んでいるのかを理解する必要がある。そしてそこから太一を引っ張り上げるために、太一の投げかけに答える形で、太一の心に響くであろう材料と表現を自らの和歌のデータベースから探して、実際に言葉を発する必要がある。このどれかが欠けていたら、原田先生は太一に響く言葉をかけられなかっただろうし、そもそもそんな状況に至るまでの仲になっていなかったかもしれない。
 
好きな人に、自分の想いを伝えたい。
あの人と仲良くなりたい。
大きな仕事を成し遂げたい。
何かをしたい、と思った時、それを具体的な行動で示すためには、それに必要なことや、そのやりかたを「知ること」が必要だ。でなければ、何をしたらよいかの検討すらつかないままであり、永遠に何もすることはできない。
だから好きな人に趣味を合わせようとしたり、話の糸口になる共通項を探そうとしたり、必死に問題点を探って解決策を練ろうとする。
知ることは、人生を前に進め、その人にとっての視界をより鮮やかにするために、欠かすことのできないことなのだ。
 
目指すことに直接役に立たなくても、知るべきことを知ろうとするプロセスは一生役に立つ。きっとそれを知っているから、こんなにも皆が輝いて見えるのだろうな、と思った映画だった。

ヒトであること,とは

 

今日のこのツイートは「人間を超えた超人的な体力と精神力をもってあらゆることを楽しみ切りたい」という意味だったのだけれど,書いた少し後になって違和感を覚えた。

 

そもそも自分が「ヒト」であるかすら怪しい,みたいな気持ちがどこかにあるのだ。

だからこのブログタイトルなのだ。

ヒトであるためにはもっと感情が豊かで,他人と愛をはぐくむことができて,友人と楽しくあることができて,などなど,いろんなことができる必要があるのでは,という気持ちがあったのだ。

そして自分はそれに満たない,ヒト以下のけだものに近い,ヒトに飢えた存在なのだ,という気持ちがあった。

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

 

自分のこの気持ちは,高校で読んだ「山月記」に大いに感化された影響だと思う。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を持っている,との自覚を強く持っていたために,ヒトを名乗るには忍びない,という気持ちがあったのだと思う。

でも,こんなふうに悩んで迷って,克服することができる,というのはヒトができることのような気がする。

 

ヒトの定義とか考えるのめんどくさくなってきた。

生きよう。