いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

「うまく」表現するために必要なこと

自分のために始めた,ライター・編集者養成講座の修了式が近づいている。

皆,卒業制作として人に取材を行い,一本記事を書くことになっている。自分はTwitterで知り合ったカメラマン/写真家の方に取材を行った。その原稿を今日の午後,コワーキングスペースにこもってずっと書いていた。

 

もう,全然適切と思われる言葉が出てこない。最初に立てた構成通りに記事が進まないし,書いているうちに内容が枝葉に分かれて本筋からずれていっている気がするし,聞き足りなかったこともあるし。

心の中になんとなく意図はあるはずなのだけれど,上手く表出できない。

でも,とりあえず構成がガタガタなまま最後まで通して書き出して印刷し,明らかに足りないところにだけ赤を入れて一旦側に置いておいている。

 

文を扱う仕事に携わっていたけれど,全然扱っている題材が違うし,当然ながら書くことも,自分が担当する業務範囲も全然違うので,うまくいかないのは当たり前のことである。でも,「うまくいかない」ことに躊躇している自分がいる。

 

今までの人生でも,同じようなことがたくさんあった。上手く伝えられないから人と話すのが苦手,上手くできないから中途半端に物事に関わるのが苦手,深く関われないから趣味と言えそうなものを自分の外に表出するのが苦手。

「うまくできない」から何かを諦める,という決断を下してきたことが多かった。

 

文字を扱うことを仕事にしたいと思ったのも,気持ちがずれないように文字という形で固定しておきたかったからだ。ころころと気持ちが変わる人間を相手にすると裏切られる。前はこう言っていたじゃないか,となってしまう。だから,文章として固定されている作品を相手にしていれば,そんな変化に惑わされることなんてないんじゃないか,と思ったのだ。固定化できる表現であれば,「うまく」表現できるんじゃないか,と思ったのだ。

でも,最近になって,ぜんぜんそんなことない,というのが嫌でも見えてくるようになってしまった。

 

そもそも最初からうまく表現できることなんてない,ということを嫌でも日々思い知らされる。職場でのコミュニケーションは結構半歩遅れてしまうし,大事な人に自分の気持ちを伝えきれない,ということもある。全然伝えたい事が伝わらない。

でも「うまく」表現できることを自分の念頭に置いてしまうから,目標水準だけは高い。しかもそれに一発で到達できると思っているような節が,自分にある。認めたくなかったけど,確かにある。

 

そんなん無理だ。

 

無理だよ。やってないことが突然上手くできるようになんてならない。したこともないことをノーミスでクリアできるはずがない。だってそれについて,大して何も知らないんだもの。

 

「うまくできる」ことを目標にすると,そういうことが起きるんだと思う。多分根底には,「失敗したくない」という気持ちと,何かよくわからないけど失敗したくないというプライドがあるんだと思う。

 

前々から横目で見ながら遠ざけてきた事実だけど,最近本当に,もうありがたいことに直接指摘してくれる人や,それを思い知らせてくれる人との出会いがあって,やっとちゃんと向きあおうという気持ちになれてきている。

しかもそのコミュニケーションのなかで,自分は「うまく」コミュニケーションを撮ろうとした記憶が全くない。自分が思っていることを,汚い気持ちも含めて,げろげろと吐き出してしまった結果,それに気づけている状態なのだ。

自分の求める「うまい」表現の結果得ようとしていたことが,「うまくない」コミュニケーションによって達成されている状態になっているのである。

 

こうなると,なにが適切なコミュニケーションなのかどうかわからなくなってくる。上手く伝えようとすると空回りして,どうしようもない感じでコミュニケーションをすると結果的に前進できて,という,思っていたのと逆の結果になってしまっている。

そもそもコミュニケーションに適切さなんてあるのか,という話になるのだけれど,でも,本当に大切にしたい人と向き合う時は,「うまく」表現しようとすることは不正解なんだろうな,と,思うようになってきている。

 

人と向き合って,自分のあらが明るみに出てしまって,ぼろぼろになるのが嫌だからそういうコミュニケーションをとりたくなかったのかもしれない。

でも,自分を守ってばっかりいると,今度は自分の精神がねじ切れてしまいそうになる。それなら,ボロボロになりながらも,前に進んだほうがいいのだろうな,とは思う。

 

こういうのいちいち考えてめんどくせえ生き方だな,と自分でも思う。でも人生ってめんどくさいもんだよな,きっと。めんどくさいなら,もうちょい納得できるように生きたいな。

知らないことを隠さないこと,自分を隠さないこと

たとえば朝起きたときに,夢でみたなにか気になるものを目覚めながら思い出したとする。それについてなにか調べておきたいと思ったとする。

でもベッドから出たときにそれの輪郭はとたんにおぼろげになり,朝ごはんの準備をしているときにはほとんど思い出せなくなり,朝ごはんを食べるときには完全に記憶の外に放り投げられてしまう。

なにかについて「これは調べて起きたい,覚えておかなければ」と思っても,それらは簡単に手の指の間をすり抜けて,こぼれ落ちてしまうのだ。

 

でも,そのこぼれ落ちたものがひょんなことから手元に戻ってくることもある。

 


**ひみつ@megaphonic

 

今日ひょんなことからYUKIの話になって,いろいろそれぞれが好きな曲を話し合い,YOUTUBEでだらだらと見続けていた。そういえば高校生〜大学生にかけてよく聞いていたな,とか,JOYのPVをずっと見続けていたな,とか,芋づる式にいろいろな思い出が引っ張りだされてきた。

そのときに,「案外自分って色々覚えているんだなあ」という気持ちとともに,「知らない部分についても,知ったかぶりせずに素直に興味を持つ事ができるようになってきたんだなあ」ということも思うようになった。

 

今までの自分は「何かを知らないこと」に対して結構コンプレックスをもっていて,「それって何?」とは聞けずに知ったかぶりをすることがなかなか多かった。だから少しでも突っ込んだことを聞かれてしまうとアウトで,恥をかくことも少なくなかった。

でも,最近になってそんな意地を張っていてもしょうがない,とやっと思えるようになってきた気がする。知らないものは知らないのだ。

知らないものは知らない,のだけれど,「知らないこと」を面白がって「それってどんなもの?」と聞ける,それで自分もそれを知ることができる。そうすると,大分素直に人と楽しいことを共有することができる。

そしてそれは,自分のことを人に伝えるときにも,同じことが言える。

 

素直に自分のことを喋ることができないと,相手から見た自分と自分の知っている自分との間にどんどんズレが生じてくる。相手は自分がつくりだした,操作された「自分」の像を見ているものだから,相手がちょっと的から外れたことを言ったりすると「自分のことをよく知らないくせに」とか思ってしまったりする。そりゃそうだ,自分で自分の事を話していないんだから。

わざわざ作った自分像を持ちださなくても良いのだ。綺麗に整えなくてもいいのだ。それでも,側にいられる人はいる。

 

自分が知らないことはひとつずつ拾っていって,

相手が知らない自分もすこしずつ明かしていって。

そうすることで,もう少しずつ,生きやすくしていこう。

思い出を相対評価しないようにすること

今日は大学時代からの友達と,花見に行ってきた。

といっても,ランチ食べたあと最初に行った目黒川はほとんど桜が咲いていなくて,結局水道橋に移動してちょこっと咲いている桜を見て,あとは飲んで話していた。

桜見るより話すほうがしたかったし,とても楽しく過ごすことができた。

 

あー楽しかった!と帰ってInstagramを開いてみると,他の人も結構花見をしている様子が見られた。桜が結構咲いてる公園で持ち寄りの食べ物を開いている人もいれば,なんかよくわからないけどテーブルにシャンパン置いてあるセレブな花見もあったりとか。

 

今は大分考えを変えていく事ができてきているけれど,他人に起きた出来事と自分に起きた出来事を比べて「あっちのほうがよかった」とか思うのって,とても不毛で無意味だし,何より精神衛生に悪い。「好きな人が恋敵とふたりきりで遊んでてこれはヤってるの確定でしょ」といったような場合であればまだわかるが,適当に見た,そんな親しい人でもない,ただアカウントをフォローしているだけの人の生活と比べる必要性は全くない。

いや,大体の人はこんなことわかって生きているのだと思うのだが,自分の場合は本当にこの切り分けができていなかったのだ。そして今もたまにできない時がある。

住む世界が異なっている(レベルが違うという意味だけではなく,単に交わる可能性がないであろう)人の出来事を見ることができるようになってしまったがために,いらぬ感情を持つことになってしまった。いや,そもそもそういうものがなくても,自分は周りを見て羨んでばかりの人生だったような気がする。

運動部の人間に憧れながら運動部には入らなかったし,人気者に片思いをしながら話しかけられずに終わったこともあった。コミュニケーションがうまいひとに憧れながら,自分では交わろうとせず,また話の種を見つけるようなこともしなかった。

 

他人と比べてしまう場合,自分はきっとその観点に関してコンプレックスを持っていると思うのだ。だから比較してしまう。現に興味の全くないことに関しては,どれだけ相手が貴重な体験をしていようと気にならないし,自分だけが理解できていれば良いようなことを体験した時は他人と比べるまでもなくその思い出が大事だと思える。

でも,自分が体験した思い出に相対比較で価値をつけることはしなくてよい。自分がどう感じたか,で決めればよい。

 

今日は,とても良い日だった。

映画「ちはやふる 上の句」 ー 知ることが、人生を鮮やかにする

原作もアニメも全く見てないんですが、映画「ちはやふる 上の句」を観てきました。

二度。
一度だけでは足りなかった。
 
 
(以下、ネタバレ含むためご注意)
 
 
 
 
 
 
 
「ことば」と「おと」を大事にしている映画だ、と思った。
ちはやふる」で取り上げる題材となっているのは、競技かるた。いわゆる百人一首だ。千年もの昔の人が詠んだ名歌が今の今まで引き継がれ、千早や太一をはじめとする登場人物たちは、その歌のもつ意味に自らの想いを重ねながら、競技かるたにのめり込んでいく。
 
名歌は声に出して読むことで、美しさを増す。その語感だけでも心地良い。それに加えて歌の持つ意味を理解していくと、それぞれの歌の背後に物語が現れてくる。
それを知ることで、千年後の自分たちが見る光景もまた、色鮮やかなものになっていく。その過程や感覚を絶妙に表現しているような音楽の使い方が完璧になされていて、登場人物と感情がシンクロする感覚に陥ることができたのがほんとうに心地よかった。
 
 
このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
 
「上の句」の劇中で出てくる歌の中で、一番好きだった歌がこれだ。
おおよそ「今回の旅は急だったので、神様にお供えするものを持ち合わせておりません。山の紅葉を捧げますので、後のご判断は神様にお任せします」という意味となる。ここから、原田先生はうちひしがれる太一に「神に祈ることができるのは、できることを全てやりきった人だけなんじゃないかな」という解釈を導き出した。
そこから繰り出される「賭けてから言いなさい」の言葉の威力は、凄まじいものがある。
 
この言葉を紡ぎ出すためには、まず原田先生は太一のこと、千早のこと、そして新のこと、そしてその関係性を知っている必要がある。太一が何に悩んでいるのかを理解する必要がある。そしてそこから太一を引っ張り上げるために、太一の投げかけに答える形で、太一の心に響くであろう材料と表現を自らの和歌のデータベースから探して、実際に言葉を発する必要がある。このどれかが欠けていたら、原田先生は太一に響く言葉をかけられなかっただろうし、そもそもそんな状況に至るまでの仲になっていなかったかもしれない。
 
好きな人に、自分の想いを伝えたい。
あの人と仲良くなりたい。
大きな仕事を成し遂げたい。
何かをしたい、と思った時、それを具体的な行動で示すためには、それに必要なことや、そのやりかたを「知ること」が必要だ。でなければ、何をしたらよいかの検討すらつかないままであり、永遠に何もすることはできない。
だから好きな人に趣味を合わせようとしたり、話の糸口になる共通項を探そうとしたり、必死に問題点を探って解決策を練ろうとする。
知ることは、人生を前に進め、その人にとっての視界をより鮮やかにするために、欠かすことのできないことなのだ。
 
目指すことに直接役に立たなくても、知るべきことを知ろうとするプロセスは一生役に立つ。きっとそれを知っているから、こんなにも皆が輝いて見えるのだろうな、と思った映画だった。

ヒトであること,とは

 

今日のこのツイートは「人間を超えた超人的な体力と精神力をもってあらゆることを楽しみ切りたい」という意味だったのだけれど,書いた少し後になって違和感を覚えた。

 

そもそも自分が「ヒト」であるかすら怪しい,みたいな気持ちがどこかにあるのだ。

だからこのブログタイトルなのだ。

ヒトであるためにはもっと感情が豊かで,他人と愛をはぐくむことができて,友人と楽しくあることができて,などなど,いろんなことができる必要があるのでは,という気持ちがあったのだ。

そして自分はそれに満たない,ヒト以下のけだものに近い,ヒトに飢えた存在なのだ,という気持ちがあった。

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

 

自分のこの気持ちは,高校で読んだ「山月記」に大いに感化された影響だと思う。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を持っている,との自覚を強く持っていたために,ヒトを名乗るには忍びない,という気持ちがあったのだと思う。

でも,こんなふうに悩んで迷って,克服することができる,というのはヒトができることのような気がする。

 

ヒトの定義とか考えるのめんどくさくなってきた。

生きよう。

映画「セーラー服と機関銃―卒業―」―見入ること,入り込むこと

 

今日はこのツイートから始まる一連の感想がとても気になったので,「セーラー服と機関銃―卒業―」を観てきました。

(以下,ネタバレ含まれるのでご注意を。ストーリーはほぼ典型的なヤクザ映画だから別に知っても大差ないと思いますが)

 

sk-movie.jp

 

一言で言うと「橋本環奈の肝の据わり具合が完璧すぎて半ば狂気じみてる」映画でした。優秀な映画。

橋本環奈のプロフィールをあまり知らないまま行ったのだけれど,彼女は映画初主演のアイドルらしい。それにもかかわらず伊武雅刀武田鉄矢を始めとしたヤクザ役の中で全く臆しない演技を見せ,むしろ組長としての風格とか迫力を見せて物語を圧倒していたのが素晴らしかった。

 

彼女の演技で特に凄かったのは「絶望」と「怒り」の表情の作り方。自分の顔の上に「怒り」という仮面をつけました,というような作り物の表情ではなくて,自分の素の表情の上に内側から怒りを全面に噴き上がらせたような,こちらに迫ってくる迫力を感じた。人間が他人を殺したいほどの怒りを湧き上がらせるプロセスを忠実に再現しているような感じがした。

きっとその「感情のプロセスを忠実に再現できる能力」が彼女にあったから,一度ヤクザとして死線を越えてきた経験を持つ星泉(脚本の元になった原作では,星泉は一回ヤクザになって諸々あった結果,組を解散したあと,という時間設定になっている。だから周りの同級生も泉に理解があるし,彼女がヤクザだったことも知っている)がカケラも恐怖を感じることなく立ち向かっていく様子とマッチしたのだと思う。死を恐れず義に従って敵に立ち向かう意気はヤクザには重要な資質だが,本来女子に背負わせるにはあまりに重い。でも彼女は忠実に再現する。そのアンバランスさが,狂気さえ含んでいるように見える。

映画の中では,彼女は女子高生でありながら,組長としての風格とドスを備えた,本物の極道であった。

 

と,橋本環奈自体はもう本当に凄まじかったのだけれど,ストーリーの細かいところをちょっとつついてみるとやれ「若者が田舎に帰ってこないのが悪い」だの「若者は選挙に行かないからマトモな政治が成立しない」だのあからさまなメッセージが挿入されているのが気になりはした(しかもこの映画,JKとJC向けにマーケティングをしていて「角川40周年記念映画」みたいなお題目までついてしまっているものだから,なんかちょっと意図のようなものを感じてしまうところもある)。でも,それを通り越して橋本環奈の存在感が凄くて吹っ飛んでしまった。

 

自分が映画を見る時は「瞬間の気持ちよさ」とか「一瞬の表情の綺麗さ,凄さ」を重視しているのかもしれない,とちょっと思ったりした。それだけキャラに感情移入して捉えているのかもしれない。

同時にいくつかのことを考えるのがあまり得意でないのも,映画の見方に影響しているのかもしれない。

 

いや,でもこの映画は非常に良かった。レビューを見ると「演技が下手」とか「そもそもなんで今セーラー服と機関銃なの」(これはちょっと思ったけど)とか結構酷評されてるけど,自分は観てよかったと思える映画でした。久しぶりにこの感覚を伝えたくて連絡ベタな自分がLINEを飛ばしたほど。

興行収入がボロボロなのがもったいないくらい,あまりに人が入らないままでいるには惜しい映画です。観てください。お願いします。

「常識」が誤っている可能性を考慮に入れること

今日はちょっと,真面目な話を。
 
 
Google傘下のベンチャーが開発した囲碁プログラム「AlphaGo」が,「世界最強の棋士」と呼ばれる韓国の棋士に打ち勝ったらしい。しかも5番勝負の最初の3戦を全勝して。要するに,コンピュータが人間に完全なるストレート勝ちをしたわけだ。
 
知的なゲームとされるチェス,バックギャモン,将棋といったゲームでも同様に対戦プログラムは進化を遂げていて,それぞれ人間の棋士に勝利をあげている。ただし囲碁だけは,ハンデなしで人間に勝利をあげることができていない「聖域」であった。
それを,今回コンピュータが崩した。
 
コンピュータが優れている要素のひとつは,その演算能力だろう。
将棋やチェス,囲碁といった知的ゲームにおいては,「どの手を打つと自分が有利になるか」を計算し,打つ手を決める。手を打つ領域が限られているそれらのゲームでは,その中でどれだけの場面展開を予想できるか,つまりどれだけの展開がありえるかを読めるか,が勝敗を分ける要素になってくる。
一桁×一桁の盤面上で勝負が展開される将棋やチェスと異なり,19×19の盤面上で勝負が行われる囲碁は,そもそも考えられる場面展開の数が膨大だった。そのため,プログラムの開発者は苦悩していたようだ。
 
人工知能をテーマとしたWIREDのこの号でも,囲碁プログラムの話題が記事になっている。ここでは,Crazy StoneやZENといった別の囲碁プログラムが4子のハンデでプロ棋士に勝利したことを挙げている。
 
ここで注意しておきたいのは,こういったプログラムをつくっている開発者たちは,人間の知能に勝つ,ということを目的にしているわけでは決してない,ということだ。彼らはただ,他のプログラムを開発する時と同じように,プログラミング上の課題や限界を乗り越えるために,プログラムを進化させているにすぎない。
 
プログラムはあくまでプログラムで,知能ではない。AlphaGoは人間と対戦して勝ったときに「勝って嬉しい」などとは感じないからだ。それはあくまで囲碁というゲームの上で対戦するときに,何が最善の手であるかを計算するものである。
 
今回の対局の際,AlphaGoが打つ手には,囲碁でのセオリーからは想像ができない手が含まれていたらしい。外側から手を進めていくのが定石であるのに対し,AlphaGoは中央に手を打つことがあり,解説者を困惑させたのがその例だ。それでも,AlphaGoはそれらの手を「妙手」に変え,勝利した。
 
要するに,今まで人間が考えてきた手の外に,本来はもっと多くの戦術があるのにもかかわらず,人間はそれを理解できなかった。ということになる。そしてそれをコンピュータがやってのけた,ともいえる。
 
AlphaGoは,過去の棋譜を片っ端から記憶し,さらに自身の中で何千万局と戦い合わせて増幅させた打ち手の中から最適手を引き当ててくるプログラムだ。その中には人間同士の棋譜の他に,AI同士で対戦してきた際に打たれた手も含まれる。だから,人間とは比べ物にならないスピードで,あらゆる方向から練習を積んだ結果,5000年の歴史の蓄積を超えた戦術を持っている,ということだ。その意味では,AlphaGoは遥かなる未来から来た棋士であるといえる。
 
AlphaGoが今までの囲碁のセオリーを打ち崩したのと同じように,自分たちが住んでいる世界で「常識」とされていることだって,数百年先の世界からみたら何をバカなことをやっているのだろう,という扱いを受けているかもしれない。
自分たちが世界の知の進化と同じレベルでまでものごとを考える必要はないけれど,「常識」と呼ばれるものがほんとうはそうではないのかもしれない,ということをコンピュータが証明してくれたおかげで,ぼくたちマイノリティと呼ばれるいきものは,もっと生きることに息苦しさを感じなくて済むようになるかもしれない。
「常識的に考えて,それはありえない」ということを口走る輩が少しでも減ることを,ただ願うのみだ。