いつかヒトになるためのレッスン

人生いったりきたり。

ことばは紡ぐ対象によって効力が変わる

www.huffingtonpost.jp

 

こういう,「確かにそうかもしれないけれど,別にそんなに心にも刺さってこないし,残らない」記事は至る所にある気がする。

記事を書いた人に落ち度はない。きっと親切心で書いているのだ。自分の実感したことを,他の誰かにも知って欲しくて書いたのかもしれない。

でも,きっとほとんどの人にはこの記事は心に残らない。

伝えたい対象が広すぎるのだ。

「これはわたしに向けられたことばだ」という意識が受け手になければ,深く響くことはない,白々しい言葉になる。

 


ONE OK ROCK - A Thousand Miles 【 Full HD 1080p 】

 

歌は,基本的に「あなたに歌う」ことが組み込まれたことばの形だと思う。歌うときには誰かを思い浮かべる。もしくは誰かの目の前で,その誰かのために歌う。だから,紡ぐことばには当事者性が与えられ,心に刺さるものとなる。

 

きっとだれでも,「自分のために用意されたことば」を探しているのだと思う。

それを発するのがアイドルか,作家なのか,隣に座っている人なのかは,人によって違う。

でも,きっと一生かけてその言葉たちを探していくのだろうし,そうやって拾ったり,与えられたり,投げかけられた言葉の数々が,人となりを作っていくのだろうと思う。

心を自分で殺さないように話をしよう

昨日長々と恋愛について記事書いてたんだけど,考えてても苦しかったし書いてる途中もずっと苦しかった。もう自分がどMなんじゃないかってくらい苦しかった。

だいたい苦手なこととかコンプレックスに思ってることとか考えたり書いたりするのほんとうに,苦しい。でも考えずにいられない時がある。で,ひとりで向き合っててもっと苦しくなっていく。

解決し得ないこととか,どうやったって太刀打ちできないことと比較をして,自分が小さい存在なんだ,ということをときどき確認しようとしているみたい。

そして,ずっと昔から同じようなことを繰り返してきたような気がする。

 

高校生のとき,まだ自分がひょろひょろで貧弱なメガネ男子だったころ,同じクラスにいた野球部の男子の姿を追いかけている時があった。彼はエースで4番打者,身体が大きく活発な人で,自分とは接点がなにもなかったから直接話をすることもほぼなく,いつもその姿を遠いところから見ているだけだった。

話しかけたかったし,仲良くなりたかったけれど,きっかけもなかったし,勇気もなかった。共通点も多分なかった。自分から接点を作ろうとすることもなかった。

一度だけ,直接話しかけられた時があった。球技大会でソフトボールをしていたとき,ほぼ野球ができなかった自分がセカンドに立った時があった。2塁に送球することがあんまりないのでは,という判断だったのかもしれない。でもその試合の時は,その好きだった人が打った球がまっすぐ自分の方に向かってきた。

ありったけの反射神経を動員して胸の前にグローブを出したけれど,球はグローブの上のほうに当たってそのまま僕の鼻を直撃した。勢いが死にきっていないソフトボールが直撃した僕の鼻からはすぐに結構な勢いで鼻血が出始めた。その時,球を打ったその人が駆け寄ってきて,自分に話しかけてきたのだ。

自分はその時鼻の痛さと自分の間抜けさからくる恥ずかしさで何にも考えることができなかった。多分大丈夫?とかごめんな,とか話しかけられてたんだろうけど,もう一切記憶にない。たぶん大丈夫だから,とか言いながらダッシュで保健室に駆けて行ったんだと思う。

とてつもなく恥ずかしかったけど,まともに接点と言えそうなものがあったのはそれが始めてだったはずだから,内心ちょっと嬉しかったんだと思う。でないと,こんなに強く覚えているはずがない。

 

結局それからもまともに話すことがなく卒業してしまったのだけれど,彼の卒業文集のプロフィールに「好きな歌手:ACIDMAN」と書いてあって,全く興味がなかったけれどアルバムを買って必死に曲を聴いていた記憶がある。

 


ACIDMAN - 式日

 

聴いたアルバムの中で,これが唯一好きになれた曲だ。他の曲には全然共感できなかった。仮にあの時がきっかけで話すことがあったとしても,音楽の趣味は合わなかったかもしれない。

 

きっと望み通りに物事が動くことよりもどう足掻いたって叶わなかったことのほうが人生では多くて,きっと数えきれないくらいやりきれない思いを人生でしてきただろう,とは思う。

でも,その気持ちを自分で必要以上に増幅させて,自分で自分の心を殺しすぎてきたんじゃないか,と時々思うことがある。ある時はそれが「諦め」となり,別の時は「嫉妬」になる。「後悔」になることも,数えきれないくらいあったはずだ。

結構不毛である。いつかは救われることを信じて,自分で自分の心を殺さないように話をしよう。

ずっと先の未来を想像すること

今日,必要があって普段は本屋で絶対覗きこむことのない領域である週刊誌コーナーに寄ったのです。今話題のセンテンススプリングとかある場所。

今回用があったのは週刊SPA!なんですが,表紙にすごくでかでかと

 

「40代以上「無職」の絶望」

 

って書いてあって,ひいいってなってしまいました。

 

 こんな感じ。グレーになってるのはTOKIOの長瀬なんですが,それを抑える勢いででかい。一緒に並べて大丈夫なのかこれってくらいの存在感がある。

気になってバックナンバーも検索してみたんですが,見事におどろおどろしいタイトルが並んでいました。

「会社員が死ぬには理由があった 「早死にする人」ランキング」

「中流サラリーマンの多くが老後「貧困層」になる 「新型下流社会」の衝撃」

「2015年版 「クビにしたい40代」の特徴」

などなどなど。

 

自分は今のところなんとか食えているし,雑誌に載っていた人のような目にもあっていないけれど,いつそういうことが降りかかってくるかわからない。

というか,このまま働いていて20年後とかどうなってるんだろう,と考えると,結構もんもんとして眠れなくなりそうになる。

こっちの世界では若い人が一般的にはもてはやされるけれど,50代になった人たちがどうしているのかは,あまり良くわからない。アプリとかでもそんなに見ない。ぼくらは「結婚」という仕組みがないぶん,ずっと一緒にいる,というようなことが実現されることが少ない。老後の事なんて皆目検討もつかない。

子どももできないから面倒を見てくれる人もいない。そんな状態でどうやって生きていくんだろう,と考えると,けっこう怖くなってくる。

 

そんなに考えこんでも仕方ないので,いま大事にできるひとやことを大事にして生きていくのが当面は大事だな,と思いました。

ゲイ専用の老人ホームとか,できたらいいのになあ。おじいちゃんになるまで暮らしたいともそんなに思わないけれど,生きるのなら生きやすい環境で,生きやすい人に囲まれて過ごしていたい。

 

 

 

 

 

 

 

頭の違う部分を鍛える

異動して一週間が経ったのですが,毎日とてもねむい。おかげでよく寝られはするのですが,本気で寝足りない。頭が消耗している感じがする。

案外平気かもと自分では思っていても,慣れていない環境に入り込んで普段と違う物事を考えて,ということをするとどうしても普段よりエネルギーを使ってしまうのだなあ,としみじみ思いました。そしてこういう体験,入社したてのころ以来とても久しぶりでなんだか新鮮な感じ。

緊張すると空気を飲み込む癖があるので,結構な勢いでげっぷが出ます。早くなじめますように…

過去を見つめなおすこと

今月は有給休暇消化のためにだいたい週休4日マンと化しているので,いろいろ溜まっていた本と雑誌を読み進めたりとか,いろいろなものを整理していたりしています。

ここ数日は何か仕事上に役立つことがあるんじゃないかと思って就活のときにせっせと書いていたノートを見返しているんですが,まあ書かれている内容の薄いこと…。社会に出てないから当然といえば当然かもしれないけれど,あまりにも薄い。しかも結構虚飾が入ってる。

就活で出すESなんて何割かは盛った内容であるとは思うのだけれど,せめて「自分はこんな人です」ということが文から読み取れる感じである必要があったとは思うのです。でも,なんか今見返してみると「さすがにこれ盛り過ぎじゃないか」とか,「ちょっとそこからその結論引っぱり出すのは無理があるんじゃないですかね」とかツッコミ入れたくなる箇所が沢山出てきて,全然自分じゃない気がするのです。

一般論しか書いてない,冗長で,結論がわからない文章。でも,この文章が当時の自分を的確に表していたのかもしれません。そんなにまじめに将来のことは考えず,かといって当時打ち込んでいたこともそこまでなく(唯一やっていたものといえば写真と読書くらいだったけれど,めっちゃハマってるという程でもなかった),大学の授業もまともに受けていない。

何をするにもあまり興味がない,適当な人間であるという印をつきつけられたような気分になってちょっと自分に引いてます。

ただ,まだこのことを笑い話にできるぶん,今はマシだと思えているのだと思います。いつか,このブログの文章もあとから見直して「こんなことwwww言ってるwwwwプゲラwwwww」とか思う時が来るのかもしれません。ちょこちょこ何かしら記録を残しておくと,こんな風にたまに自分を思い返して楽しむことができていい暇つぶしになります。

 

過去を振り返るとき,自分はあまり「思い出」を当てにしません。

思い出はいつも主観的なものだからです。

だいたい自分のいいように結論を捻じ曲げるし,美化します。

そうして,都合の悪い部分をすべて振り落とした妄想を「思い出」に据える,ということが間々起こり得ます。

だから,その時思ったことは新鮮なうちに文章に落として保存して,いつか見返す時のためにとっておくようにしています。

文章にも主観は入りますが,文章というものは固定化されたメディアです。最初から認識が歪んでいる場合は別ですが,基本的に書いた当時の気持ちが時間とともに揺らぐことはなくなります。

そうやって,自分は過去の自分と冷静に向き合うことにしているのです。

 

いつも読んでいる雑誌「ダ・ヴィンチ」で羽海野チカ特集が組まれていて,『3月のライオン』の中でヒロインの女の子がこんな台詞を言ったようです。

「ひな 世の中にはね その場しのぎで自分で勝手に話を盛って 話してるうちに 『ホントにそうだった』って思い込んじゃう人がいるらしいの」

 お仲間界隈では身につまされる事が多そうですね。

気をつけよう。 

 

3月のライオン 11 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 11 (ジェッツコミックス)

 

 

 

物語をつむぐ理由

きょうはけもケットに行ってきました。簡単に言うとケモナー向けの同人誌即売会です。中学高校大学と個人サイトが全盛期だった時,HTMLコードをかじりながら奮闘してケモホモ小説サイトを作っていた自分としては(この歴史自体は黒歴史ですが),一度は行ってみたいと思っていたイベントでした。

現地に行ってみてびっくりしたのが,買いに来る人たちの人数。整理券を配って人数整理をしなければいけないほどで,400人ずつ入場するタームが3回あったところをみると述べ1500人程度はいたように見えました。川口に見るからにオタクっぽい人がたくさんいて,何かとても異様な光景でした。おばちゃんとかになんかすごい目で見られた。

サークル数も100を超えていて,結構沢山の人が作品を出してるんだなーと感心してしまいました。そしてダッシュで同人誌を買い漁るわたし。案外買ってしまった私。こうしてまたクローゼットが狭くなる…

しかし,かなりマイナーだと思っていたケモノものにこんなにも人が集まっていて,時代は変わったんだなあ,としみじみ思いました。自分がサイト運営してた頃は,そんなにお仲間がいない気がしていたのに。

そんなこんなでエロ本をそれなりにたくさん買ってほくほくしていたのですが,サークルの中で小説を書いていたり,非エロの漫画を書いている人は殆どいないんだなー,と参加後に友人とお話をしていたのでした。

 

基本的に,人生に何の疑問もなく満足している人は,創作をしません。

なにか作品をつくりたいと願うのは,そこに処理しきれない何らかの不満や不安,怒りといったものがあり,それを吐き出したい,あわよくば理解して欲しい,という思いがあるからです。その名前もつけられない感情をどうにか表現したくて,自分は小説というものすごく迂遠な表現方法を使ってその気持ちを頭の中から追い出していました。同じようにサイトを運営している何人かの人と志を共にし,励まし合ったりたたえ合ったりもしていました。そうすることで,結構深いところで理解し合い,寂しさを紛らわせ,欲求を満たしていました。

ただ,SNSがすっかり生活の中に溶けこむようになってしまってからは,欲求を満たす部分が全体的にどんどんと肥大してしまっているのではないかなあ,と思ったりもします。

さみしければ「さみしい><」とでもTwitterでつぶやけばリプライが飛んで来るようにはなったでしょう。本人の顔写真?必要ありません。身分はいくらでも隠せますし,偽れます。都合のいいように改変できるんですから,返事がたくさんくるようにプロフィールをごまかすくらいは楽勝でしょう。

エロ画像にもエロ動画にもすぐアクセスでき,あっちの欲もすぐに満たせます。

少なくとも表面的には満足することが増えてしまったがために,わざわざ他の手段を使って自分のことをわかってもらう必要はなくなってしまったのかもしれません。

ただ,本質的には人の内面は変わらないので,表面的な交流で精神を落ち着かせられなくなる時はいつかくるんだろうな,とは思います。SNSは即物的な交流はできるけれど,深くまでは踏み込めない。

だから,あんなにも沢山の作品が未だに生まれるのだと思います。

 

今回同人誌を買い漁って読んで,ひさびさに自分で作品作るのもいいな,と創作欲が呼び起こされてきました。

鉄は熱いうちに打て,ということで,気持ちが落ち着く前にぼちぼち小説書きを再開しようかな,と思います。

 

あと5時間

今年もあと僅かになりました。実家に帰ってまったりする年末年始はいつもどおり。北の果ての空気は痛いほど冷たくて,でも心地良い感覚がします。

年越しそばも食べたし,三が日を越せる程度の食料は買い込んだし,もうソファでゴロゴロしているほかにすることがありません。ぼーっとしていると,今年のいろんな出来事が思い出されてきます。

 

今年は色々と成長できた実感があった一年でした。仕事では自分でもある程度及第点といえる結果も残せたし,体格のほうも目標にしていた85kgを越え,大分大きく成長できました。いろいろな人と色々楽しいこともできました。結構休みなく仕事に遊びにと動き回っていたので,この一年はとても短く感じました。

基本的に「やりたいことは落とさず全部やる」という気持ちでここ数年行動をしてきたのですが,それは同時に「自分の欲とどのように向き合っていくか」という命題と真正面からぶつかることを意味します。

今年は,自分の欲とどう付き合うかを考えさせられた一年でした。

 

もともと細い体型にコンプレックスがあったのをきっかけに身体を鍛えるようになり,今年にほぼ理想としている体重までは増やすことができたので(筋肉量はまだすくないですが),やっと自分の見た目に納得がいくようになってきました。

割とその見た目で写真を投稿したりするといいねが沢山降ってきたりするので,なんか楽しくなってきてしまって自撮りを沢山アップしたりしました。今まで満たせなかった承認欲求と自己顕示欲がもう,なんか爆発してしまって。

まあそれは今に始まったことではなく,大分身体が整ってきた去年の後半あたりから傾向はありました。だってなんか楽しいんです,通知がピコピコなるのが。数が増えると嬉しいんです。

自覚はしていて,一応今年はリアルで遊んだりする機会を増やして承認欲求的なものを逃していたには逃していたのですが,たまにはいいじゃんって感じで投稿していました。

 

多分精神衛生的にはそういうことしないほうが健康に生きられるし,無用な衝突を起こさなくて済むんですけど(実際リアルに注意されるし。すいません,ありがとうございます),多分この欲求を完全に抜くことは無理だと思うんですよね。だって元がコンプレックスまみれなんですし。認められたい欲求は多分,しばらくは減らない。

 

だとすると,きっと考える必要があることとしてはその欲求をどう健全な方向に捻じ曲げていくか,ということだと思います。どうすれば,他人にわざわざ確認しなくても欲求を満たせるようになるか。

なので,2016年は「自分が自分で満足できるまでやり切る年」にしようと思っています。

自分の肉体改造も,頭脳の研鑽も,人付き合いも。「ああ,ちゃんと自分は全部やり切れたんだな」と自分で思えるところまでやり切れたかどうか,で自分を評価する年にしたいと思います。

 

今よりもっとガチムチになって,挫折しっぱなしの語学も勉強しなおして,大事にしたい人ととことん遊んで…と,今年よりも短く感じられるような,より濃い一年になれるように一層頑張ります。

今年よしなに付き合ってくださった方々,来年もどうぞよろしくお願いします。

あとやっぱり,たまに自撮りあげてしまうのは笑って許してあげてください。笑

 

------ちなみにだいたい今年どんなことがあったか-------

1月:柔道メンバーで箱根温泉へ。誕生日祝ってもらって嬉しくなる。

2月:ライオンキング観劇。とか大阪行ってた。

   あとアキバナイトでユリ熊嵐のコスプレした。

   これがきっかけでコスプレ熱が上がる。

3月:福岡出張行ってぺいくんと初対面。

   単位展が面白かった。

4月:柔道合宿で名古屋に。酔って暴れて「悪魔」の称号をいただく。

   あとまた大阪と北海道に出張に行った。

5月:伊勢に旅行行ったり香川に出張したり。あとBBQしに行った。水の中で暴れる。

6月:ねごとの「アンモナイト」のジャケ写そっくりにスタジオ撮影してもらう機会があった。

   あとアキバナイトでリザードンのコスプレをした。

7月:agehaであっちゃんの勇姿を見る。

8月:花火大会2回。と伊豆に海水浴に行く。彼氏ができる。

9月:ハワイ旅行とPerfumeの武道館ライブに参戦。

10月:草津旅行行った。

   あとアキバナイトでスプラトゥーンのコスプレした。

   ハロウィンでは白熊のコスプレした(がやや不完全燃焼)。

11月:彼氏にふられる。めっちゃうまい寿司を食う。

   コスプレ鍋会なるものを実施。

12月:忘年会デブエットで3kg増量し,目標体重達成。

   九州出張。

   そして今。

 

こう見ると案外各地飛んでたなあ…

来年も色んな所に行けるといいな。